それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 (マルコによる福音書8:31〜38)
祈り
父なる神様
聖書に書かれた言葉には、殊にキリストの言葉の中には理解できないと思える言葉が多くあります。説教で聞いてその時は理解できたと思ってもいつの間にか忘れて、また、どういうことだったっけ?と思うことがあります。
「自分の十字架を負って」というこの言葉もそのような言葉の一つです。
「自分の十字架」とは何なのだろう?と思い、自分の十字架を負うなんてどんなに怖ろしいことかと思ったりします。
私たちは、「あの時、ああしていれば良かった、こうしていれば良かった」と成功の道ばかりを求めて、「キリストが十字架にかかるなんてとんでもないです」と思い、果ては、「人間なんかになってこんな所に来なければ良かったんじゃないですか?」とまで言いそうになります。
けれど、自分の歩むべき道がここに示されていることを思い、感謝致します。
キリストの標された道を御後に従って歩み続ける者とさせてください。
キリストの御名によって祈ります。アーメン
キリスト教がもたらしたのは、「主人」たることを放棄することによって「主人」(主体)たらんとする逆転である。(『日本近代文学の起源』告白という制度)
— 柄谷行人 (@karatani_kojin) November 16, 2021