風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「逃げない主」(マルコによる福音書14:43~52)(長老による説教)

今日は、長老の説教によって礼拝を守った。

以下、

 

「逃げない主」

 

 2022年3月27日(日) 受難節第4主日 

聖書箇所:マルコによる福音書 14章43節〜52節

 

1.

 2021年11月14日○○教会礼拝でルカによる福音書22章47節~53節の○○牧師原稿の説教代読が行われました。説教題は「救いへと招き続けてくださる主」代読者は私であります。この箇所は本日の聖書箇所の平行箇所でもあります。そのときの説教では、ルカによる福音書22章52節後半 「まるで強盗にでも向かうように、つるぎ剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」この御言葉を中心にし、「イエスは自分を裏切った者、自分を殺そうとする者にも語りかけ、救いへと招かれる、そしてその者たちのためにもイエスは十字架を負われた」そのような説教でありました。

 本日はその平行箇所であるマルコによる福音書から神さまの御言葉を皆さんと一緒に聴いていきたいと思うのです。

 

2. 

 本日の説教題として「逃げない主」という題をつけました。「逃げる」とは捕まえられないように遠く離れようとする。または捕まっているところから抜け出すことを言います。50節後半と52節後半の「逃げてしまった」という言葉は聖書の原文では「逃げる、逃げ去る」という意味の他に「免れる、逃れる ○○を避ける」という意味があります。ですから、ただ単に捕まえられないように遠く離れようとする、という意味でだけではありません。私たちが様々な問題にであったとき、その問題を避けてしまうことがよくあります。苦しいとき、辛いとき、そのような自分から「逃げてしまう」ことがよくあるのです。

 私は、今まで若い人たちの教育に携わっていました。最近の若い人たちは、辛いことや、苦しいことがあると、すぐにそこから逃げてしまう、そのようによく言われます。中学生・高校生の担任を持っていた頃、ちょうど今頃です。年度末、学年の変わり目の時期です。数学欠点をとった生徒の3者面談が行われました。「数学欠点だけど、勉強したの?苦手意識があるんじゃない?苦手だからといって数学の勉強から逃げてしまっているんじゃあないの?」そういって私は生徒に迫っていきます。でも、「逃げてしまう」というのは若い人たちだけに限ったことではありません。私も年齢を重ねると、どんどんと「老い」がすすんでいます。しかし、その「老い」を真っ正面から受け止めることができていません。人生の後半、迫りつつある死をなかなか真っ正面から受け止めることができていないのです。 逃げてしまっているのです。心理学の中でも「逃避」という行動は、心理学の行動としてきちんと位置づけられております。今の現実から逃げてしまおうとする現実逃避、それによって、多くの人がお酒や薬物に依存し、依存症になることが私たちの社会で多くおこっています。

  このような「逃げてしまう」自分を何とかしたい、弱い自分を変えていきたいと考え、多くの人たちは自分を変えようと努力をします。書店に行くと「自己啓発」や「自己変革」といったタイトルの本が大変よく売れているのも今の社会の現実です。

 

 3.

 それでは聖書は自分が逃げてしまうことをどのように記しているのでしょうか。「自分から逃げないように」頑張れ、自分を鍛えろと教えているのでしょうか。

 今日読んだ聖書の箇所は、主イエスが捕まえられる場面です。このあと主イエスは十字架にかかっていきます。主イエスが十字架にかかるというのは主イエスの御生涯の中でも最も大切なときのはずです。そんなとき弟子たちは、どうだったのか。50節をみると「みんな逃げてしまった」これが聖書に記している言葉です。51節52節をみると最後に一人だけ素肌に亜麻布をまとってイエスについて来た若者もいました。捕まえられるのが嫌で自分をかくして主イエスについて行こうとした。しかし、人々が捕らえようとすると自分を隠していた亜麻布を捨ててやっぱりこの人も逃げてしまった。結局、誰一人として、主イエスに従ったものはいませんでした。「みんな逃げてしまった」これが今日の聖書に記されている言葉なのです。先ほども申し上げたように、ここで「逃げてしまった」というのは、ただ単に「捕まえられないように弟子たちは遠く離れようとしただけではありません。弟子たちの心も主イエスから離れ、自分のことを第一に考え、自分が捕まるのが嫌で、「逃げてしまった」のです。

 弟子ですから従っていくのが役目です。少しこの箇所の前の31節では、弟子のペトロは主イエスに「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。「皆の者も同じように言った」と記しています。絶対逃げません。絶対どんなことがあっても主イエスに従っていきます。自分でどこまでも頑張ってついて行こうとした。自分ならついて行けると思っていた。なのに一番肝心なときに「主イエスを見捨ててみんな逃げてしまった」のです。

 聖書がいう「逃げる」というのは今、自分から逃げてしまう人、逃げてしまいそうになる人だけのことをいっているのではありません。むしろ、全ての人はみんな「逃げてしまう」ものだというのです。たとえ強い自分であると周りから言われ、自分から逃げずに多くの問題を解決していたとしても、周りから人格的にも優れているといわれている人であっても、結局は逃げてしまうことがある。嫌なこと、大変なことがあると、すべての人は自分逃れをしようとするのです。

 

 4.

 「弟子たちがイエスを見捨ててみんな逃げてしまう」そんな中で主イエスはどうだったのでしょうか。多くの人は、「主イエスも逃げようとするだろう」と考えていました。だから、群衆は(43節)つるぎ剣や棒をもって暴力をつかってでもイエスを捕まえに来たのです。イエスを裏切ったユダも(44節)「私が接吻するのがその人だ。捕まえて逃がさないように連れて行け」と「逃がさないように」といいます。

 聖書の原文を見ますと44節の接吻と45節の接吻という言葉には違いがあります。44節の言葉よりも強調した言葉が45節の接吻という言葉です。45節でユダはイエスに(45節)「激しく口づけ」したのです。イエスに親愛の様子を形では示しながら、「こいつがイエスだ、まちがえないようにちゃんと捕まえろ」「口づけしている間に逃げないうちに早く捕まえろ」そういう思いがここににじみ出ています。

 確かに主イエスは神であるならば、人々に捕まえられるような無様なことはしないと私たちも考えます。神は全能の神であるのだから、偉大な力で逃れるか、神の大きな力で捕まえる人々を打ち負かすのが私たちの中で考える神であります。ですから人々が逃げないようにしようとするのはよくわかることです。

 しかし、そういう人々の思いとは裏腹に主イエスは一切逃げられませんでした。「(48節)まるで強盗にでも向かうように剣や棒をもって捕らえに来たのか」とイエスはいわれます。居合わせたものが抵抗したものの(47節)、主イエスご自身は何の抵抗もせず、逃げずにすんなりとお捕まりになったのです。

 

 5.

 なぜ、主イエスは逃げずにすんなり捕まったのでしょうか。主イエスは捕まるものだとすでに覚悟を決めていたようにも思えます。主イエスはこれから、苦しく大変な十字架の道を歩まれることはよくわかっていたはずです。私だったら当然逃げると思います。自ら苦しみやつらさに向かおうと考える、そんなことはしません。主イエスが逃げなかった意味、理由、それは聖書には、たった一言、49節で「聖書の言葉が実現するため」と書いています。聖書の原文を見ますと聖書という言葉が複数形になっています。普通聖書という単語が複数形であるときはある特定の聖書の言葉を指すのではなく、聖書全体を示しています。つまり聖書全体が示していることが実現するために主イエスは逃げなかったというのです。聖書全体が示していることとは何か。聖書はいろいろなことをいっているのですが、中心は、神が私たちを愛し、救い主を送ってくださり、私たちの罪を負って十字架にかけられ復活した。それによって私たちが救われたことです。私たちはこの2月3月、イザヤ書の53章の聖書の言葉を何度も味わいました。今日の聖書の箇所でもこのイザヤ書53章の言葉が成就するために主イエスは逃げなかったのです。イザヤ書の53章の5節には「彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。・・・」つまり、「主イエスを見捨てて逃げていった」そんなもののために主イエスは十字架にかかられた。「見捨てて逃げていったもののために」主イエスは「見捨てず逃げずにいてくださった」のです。

 

6.

 主イエスが苦しいときも悲しいときも心配なときも、どんなときにも私と一緒に逃げずにいてくださる。大丈夫、私がついている、私はあなたを見捨てない。そういって私のそばにいてくださる。自分の解決する力、能力では、もう「逃げる」ことしかできないようなものかもしれない。

 主イエスはそんな私たちのことをよく知った上で主イエスご自身がそこから逃げずにいてくださる。だから私たちは、日々の生活を平安にすごし、取り組んで行くことができるのです。もちろん、逃げずに一生懸命取り組んでも、すぐには、自分の思い通りにはならないかもしれません。忍耐が必要かもしれません。また、何度も何度も逃げてしまうかもしれません。しかし、今、主から私に与えられた課題を取り組んでいけ、主はあなたを見捨てない。あなたがどのような時、どのような状態になっても逃げずに共にいる、そのように語りかけてくださるのです。教会で共に礼拝をしている私たちはこの主の御言葉を深く覚えて歩んでいきたいのです。

 

祈り

 主イエスキリストの父なる神様、今日も教会で皆さんと共に礼拝できますことを感謝いたします。弱くすぐ逃げてしまうような私たちですがそんな私たちを見捨てないで、主イエスがいつも逃げずに私たちのそばにいてくださっています。どんなとき、どんな状態の時であっても主イエスが私たちのそばにいることを深く覚えさせてください。この祈り、主イエスキリストの御名によって祈ります。

 

 

長老が、また教会員が福音を語る教会となるということは、夫が牧師になった頃からの願いであり、目標であった。今年から、説教代読と共に長老方による説教が年に数回加わることとなった。