風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「イエスに従う」(マルコによる福音書4:10~12)

 「イエスに従う」 

2023年9月3日(日) 聖霊降臨節後第14主日

聖書箇所:マルコによる福音書  4章10節~12節

 

 今日から、11月まで○○先生の説教代読は、マルコによる福音書を読んでいくことになります。今日は、4章の10節から12節までをお読みしました。

 実は、4章の1節から20節までは、既に6月4日に「御言葉に生きる」という説教題で、○○長老が代読をおこなっています。

 しかし、その際には、1節から9節の「種を蒔く人のたとえ」と13節から20節までの「種を蒔く人のたとえの説明」を、元に説教原稿が記されており、今日お読みした10節から12節の「たとえを用いて話す理由」については、全く触れられていませんでした。

 推測ですが、「種を蒔く人のたとえ」の説教では、たとえ話とたとえ話の説明の間に、入っている今日の「たとえを用いて話す理由」まで触れると煩雑になって、話しがぼやけてしまうので、別途、この箇所だけの説教原稿を用意されたのではないかと思います。

 

 それでは見ていきたいと思います。この、イエスがたとえを用いて話す理由の部分は,福音書を編纂する際に、種蒔きのたとえの説明の前に、あえて、ここに入れられたと聖書学的に考えられています。原文では、「たとえ」という単語が単数形ではなく複数形となっているためです。

 つまり、種蒔きのたとえ以降にも、21節から25節まで「ともし火と秤のたとえ」が、26節から29節まで「成長する種のたとえ」が、さらに30節から32節まで「からし種のたとえ」と、イエスは続けていくつものたとえを話されました。これらの「たとえ」も含んでいるので、複数形になったのであろうと考えられています。

 12人の弟子たちと周囲の人々は、これらのイエスが話されたいくつものたとえを聞いて、どうしてイエスがたとえを用いるのかを尋ねたのです。

 

 イエスは、その理由についてお答えになります。11節のところ、「イエスは言われた。『あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」、このようにイエスはお答えになりました。

 ここで、イエスは「外の人々」という言葉を使っています。つまり、内側と外側との境界線を引いて、内と外に分けていることがわかります。では、この境界線は、一体、何なのでしょうか。

 直前のマルコ3章31節のところ、66ページの下の段ですが、イエスの母や兄弟たちは「外」に立っていました。32節、中にいた人から、イエスの母や兄弟姉妹が「外」で、イエスを捜していると知らされます。それに対して、イエスは34節、周りに座っている人々、つまり内側の人々を見回して、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と語っています。

 実際の血のつながりや民族ではなく,神の御心を行う、つまり、イエスに従うかどうかなのだと答えられました。

 つまり、イエスがひかれた境界線とは、イエスに従うか否かということです。

 イエスに従う者、内側の者には、神の国の秘密が打ち明けられていると、まずイエスは述べます。神の国とは、一体何を指しているのでしょうか。それは、神様が支配していることを表しています。この世の罪に支配されず、神に治められて導かれていく、これが神の国です。この神の国、神のご支配がどのようにして、つくられるのか、それが神の国の秘密です。

 イエスは、救い主としての活動を開始されたとき、「時は満ち,神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、まず最初に述べられました。マルコ福音書1章の15節に記されています。

 イエスが救い主として業を始められたとき,時は満ちて、神の国は近づいたのです。つまり、神の国、神のご支配は、イエス キリストによって、到来するのです。イエス キリストに従うところに、神の国,神のご支配が現れるのです。そして、神の国の「秘密」とは、イエス キリストご自身のことを指しています。神の国とイエス キリストは切っても切り離すことができないのだと、イエスは述べられます。

 

 聖書の教えは,人生をより豊かにするための知恵や上手く生きていくためのコツといったものではありません。聖書の言葉は、イエス キリストご自身を指し示し,イエス キリストに従うことを求めているのです。

 だから、イエスに従おうとしない、つまり外側の人々には、神の国の秘密であり、奥義であるイエス キリストが明らかにはならないのです。救い主であるイエス キリストに従うという核心を抜いてしまったとき、すべては、単なるたとえ話しとなってしまいます。神の国の秘密であり、奥義であるものが覆われたままの単なるたとえ話になってしまうのです。

 11節の後半で、「外の人々には、すべてがたとえで示される」とありますが、これは、イエスに従わない人には教えないというのではありません。イエスはあらゆる人々の前で語られます。自分を憎み、殺そうとする者たちにさえ、お語りになられました。それでもたとえでしか受け取れないというのは、神の国とその秘密を覆ってしまう、罪がいかに頑なで、大きいのかが表われています。

 続く12節で『彼らが見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解できず、こうして立ち帰って赦されることがない』と語られます。

 「見るには見るが認めず」とはどういうことなのでしょうか。誰でも、種蒔きのたとえを、神と切り離して、ある種の教訓や学びのための知識として、聞くことは可能です。

 「心ここに在らずんば見れども視えず」という言葉があります。「見れども視えず」の「見れども」の見るは,見学するの「見」という字が、「視えず」は、視力検査の「視」という字が用いられています。

 「心ここに在らずんば見れども視えず」、この言葉が示すように、たとえ、目の前で語ってくださるイエスをじっと見ていたとしても、心がここになければ、心が一緒についていかなければ、本当には視ることができないのです。

 続けて、キリストの許に立ち返って、従うのでなければ、話しを聞いたとしても、理解できない、つまり、本当は聴こえないのだ、と語ります。「悔い改める」という言葉は、元々は「振り向く」とか「引き返す」という意味です。自分自身がイエスの方を振り向きもしないで、自分のやっていることを続けながら聞くのではありません。イエスを自分の方に引き寄せようとするのでもありません。自分自身が、イエスの方を振り返って,イエスの許へと進み、立ち返って,イエスと共に歩みながら聴くのです。

 イエスに従うとき、わたしたちは神の国に入ります。イエスに従うから分かること、イエスが示してくださることが必ずあります。イエスを信じ、従ってきた人生の中で、イエスご自身から教えられたこと、これらは、信じていなくても生きていれば自分で分かったというものでは決してありません。イエスがそれぞれに示してくださったものです。

 神の国の秘密であり、奥義であるイエス キリストは、今もわたしたちのところに来ておられます。誰でも教会に来ることができます。大人にも子どもにも語ってくださいます。

 外側に立ったままで、すべてをたとえにしてしまうのではなく,イエスに従って歩み出すならば、イエスご自身が、私たちの頑なな罪から解き放ってくださり、神のご支配のもと神の愛に生きる恵みを味わせてくださいます。救いに生きるという新しい人生を差し出してくださいます。

 まずは、私たちが、信じない外側の者ではなく,信じる内側の者へとなりたいと思います。頑なな罪の中に留まるのではなく、イエスに従い神の祝福を受けて生きる者になりたいと思います。

 そして、神が与えた使命である、今は外側にいる人たちを内側に招き入れる務めを、この地で果たしていきたいと思います。祈ります。

 

今回の説教原稿はメモ風で、語りかけるようなものではなかったので、長老が前後を随分補って下さった。

「「見れども視えず」の「見れども」の見るは,見学するの「見」という字が、「視えず」は、視力検査の「視」という字が用いられています。」ここなども、原稿にはなかった。

最後の「そして、神が与えた使命である、今は外側にいる人たちを内側に招き入れる務めを、この地で果たしていきたいと思います。」も長老の言葉。

 

 

元々の原稿は、

こんな感じ。

フジバカマとアフリカハマユウと八つ手の葉だけ。

 

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今日の花