風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子47

あめつちのはじめの日に夕ありき朝ありき悪しきものは萌え出で『鷹の井戸』
葛原妙子は第七歌集『朱靈』で自己の罪と深く向き合ったと私は考えていたのだが、第八歌集『鷹の井戸』のこのような短歌を見ると、人間というのは難しいものだとつくづくと思わされる。
この歌は、『鷹の井戸』の中の「憂犬」の中の「夕ありて朝」の中にあるのだが、この歌の前後には次のような歌も詠われている。

ひとり言ひとりに帰る「なんぢ暗黒をつくり為せば夜あり」『鷹の井戸』
憂暗垂れこめにつつあかつきに未成のアダム微光せりけむ

この「夕ありて朝」というのは旧約聖書の創世記からとられたものであるのは言うまでもない。神が世界を創造された時のことが記されている箇所である。

地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。(創世記1:12~13)
このように聖書においては、神は造られたものを見て「良し」とされているのであるが、妙子は「悪しきものは萌え出で」と詠っている。私たち人間には罪を自分のこととして受け入れるのは相当に難しいことなのだと思わされる。この世に罪が満ちあふれているのも、アダムが罪に堕ちたのも、全ては、それらを造った神のせいだというわけなのだ。

『鷹の井戸』の短歌をとりあげた「葛原妙子44」でも書いたのだが、妙子の中では実の父への想いと父なる神への想いとが綯い交ぜになっているようなところがあるように思う。そのような想いは妙子固有のものであると思うが、上記に挙げた歌のような想いは私たち人間は誰でも持ちうる想いなのではないだろうか。キリスト教徒となる際に、あるいはキリスト教徒となってからも、このような想いと向き合って闘わなくてはならなくなる場合が結構起こってくるように思う。

しかし、神は私たちを愛をもって造られたのだ。愛とは自由が前提になくては成立しない。それ故、人は、罪に堕ちることを選ぶ自由も与えられていたのである。けれど、私たちにはそのことを理解するのが難しい。どうにか頭で理解したとしても、感情がついていかないのだ。私たちは、「神様、どうしてですか!自由なんて与えないで私たちを縛り付けておいてくだされば良かったのに」等と言い出しかねないのである。信仰とは、最終的には、神との和解であるのだと思わされる。しかし、この神との和解を成し遂げるためにイエスはこの世界に来られたのだ。

エスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。ヨハネによる福音書19:30)
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。(ローマの信徒への手紙5:11)

実際、妙子自身もキリストを見続けることで、神との和解へと導かれている。