風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子27

 私にとつては第六歌集にあたるこの『葡萄木立』が作られた期間は、前歌集『原牛』が作られた時のやうに平明な年月ではありえなかつた。私はきはめて身近に大きな葡萄の玉をみた氣がするのである。從つてこの歌集の名、『葡萄木立』は、この集中にある作品『葡萄木立』を特に記念するためのものではない。只、この作品は圖らずもこの一册の歌集の序曲となつた感じがふかいのである。(『葡萄木立』後記より)
この文章は、『葡萄木立』の後記の「日向を若い父親に抱かれて子供がやつてくる」で始まる段落の直前の一段落に置かれている。歌集『葡萄木立』「葡萄木立」の章から始まる。

青き木に青き木の花 纖(こま)かき花 みえがたき花咲けるゆふぐれ『葡萄木立』
「葛原妙子26」で取り上げたこの短歌は、『葡萄木立』の中の最後の章である「逭き木に」の中にある。


ところで、葡萄にまつわる短歌が載っているのは『葡萄木立』だけではない。
葡萄の木落葉(らくえふ)せるは 翳せるは 涸れたる地(つち)の臍帯のさま 『薔薇窓』
襁褓より這ひいでにける赤ん坊葡萄の蔓をもてあそびしや 『鷹の井戸』

『薔薇窓』の短歌は明らかにだが、『鷹の井戸』のこの歌も臍帯を暗示していると言えるだろう。そしてやはり葡萄の蔓であれば、この赤ん坊はキリストあるいはキリスト教徒に関わっていると思われる(関連記事「葛原妙子26」)。このように葡萄に纏わる短歌は第四歌集『薔薇窓』から第八歌集『鷹の井戸』に至るまで広範囲に詠まれているといえる。


第六歌集『葡萄木立』の中の短歌が詠まれた時期、妙子の身の回りで子どもが生まれることが続いたのだろうか。身内(であろうか)の出産と胎内のキリストを詠った歌が相前後して置かれている。

胎兒はかつきりと球(きう)の中に入り産月の雲とほく輝く(p293)
みどりふかし母體ねむれるそのひまに胎兒はひとりめさめをらむか
ふとおもへば性なき胎兒胎内にすずしきまなこみひらきにけり(p294)
絹よりうすくみどりごねむりみどりごのかたへに暗き窓あきてをり(p296)
小さなる心臟燃えて赤子はあらしの夕(ゆふべ)母に抱(いだ)かれぬ(p297)
寢臺に汝(なれ)が陣痛孤獨なる 夕(ゆふ)明る街炎のごとく(p312)
胎兒は勾玉なせる形して風吹く秋の日發眼せり

312頁のこの短歌は294頁の「性なき胎児」の歌に呼応しているだろう。

懐胎女(みごもりめ)葡萄を洗ふ半身の重きかも水中の如く暗きかも『葡萄木立』
この歌からは破水を連想する。命を生み出す出産という事柄の中には常に死というものが孕まれている。神の子であるキリストは、命の芽生えの初めからそのような死と隣り合わせにある人間の胎児となってこの世に来られたのである。
以下も全て破れて落ちる不安を暗示していると思われる。

たれか投げし命綱あり きらきらと葡萄實れるそらに光りぬ『葡萄木立』
うすらなる空氣の中に實りゐる葡萄の重さはかりがたしも
原不安(げんふあん)と謂(い)ふはなになる 赤色(せきしよく)の葡萄液充つるタンクのたぐひか
冬の甍(いらか)あらはなる日よ胎兒は仄暗き羊水の中に搖れゐき

『薔薇窓』の中にも同じように暗示された歌が見うけられる。

いたましき器(うつは)なるらむ薄き玻璃くれなゐのぶだうの液充つるとき『薔薇窓』
しかし、ただ重く破れて落ちる可能性があるというだけでなく、葡萄の実は収穫されれば潰されて搾られるのである。

黒き葡萄の玉潰すべく盛るところ秋の日ありて刑餘のこころ『葡萄木立』「葡萄木立」(葡萄木立)
葡萄畑より重き葡萄の運ばれてぶだうよ滴々と搾られにけり

聖書には、次のような言葉がある。

祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。(ヨハネの黙示録14:18~20)
わたしのもとにいる力ある者を 主はすべて退けられた。わたしに対して時を定め 若者らを砕かれた。主は、酒ぶねを踏むかのように 娘ユダのおとめらを踏みにじられた。(哀歌1:15)
「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ 憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び わたしは着物を汚した。」(イザヤ書63:3)

歌集『葡萄木立』「葡萄木立」章(葡萄木立)の中で詠われている上記のような短歌は、このような聖書の言葉に繋がって、神の裁きを思い起こさせる。けれど、歌集『葡萄木立』「葡萄木立」を序曲として「青き木に」に至るのである。

キリストは正に私達の身代わりとなって神の裁きを身に受けるために、私達と同じ人間の胎児となってこの世に来られた。私達がキリストの死から新たに生み出されるために。

神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。(ヨハネによる福音書3:17)

人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12:23~24)
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネによる福音書15:5)


葛原妙子はこの時点でそのことをはっきりと理解していた、と私は思う。


盆地に雲充つるけはひ暗黒の葡萄液美しきシャムパンとなるべく『葡萄木立』「葡萄木立」(葡萄木立)


(註:記事中のページ数は砂子屋書房出版の『葛原妙子全歌集』による)