風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子21

葛原妙子の第一歌集『橙黄』にはイヴのことを詠った次のような短歌がある。

禁斷の木の實をもぎしをとめありしらしら神の世の記憶にて
イヴといふをとめのありしことすらや記憶にうすれゆくこのごろか

ところが、その後妙子自身の手で大幅に改変されたという異本『橙黄』には後の方の歌だけが残されたようだ。

イヴといふをとめのありしことすらや記憶にうすれゆくこのごろか 異本『橙黄』
「禁斷の」の歌からは明らかに罪を意識している様子が窺える。けれど、「イヴといふ」の歌も、「記憶にうすれゆく」と言いながら言及しているところに、避けては通れない、忘れてしまうわけにはいかないものを詠み込んでいると思わされる。

又、第五歌集『原牛』にもイヴについて詠った歌がある。

原初にて異性ありしか イヴはアダムの骨より生れき『原牛』
「葛原妙子20」において、私は、「有限者(人間)であるマリアを完璧な愛を抱く聖母として拝むカトリックの信仰は受け入れがたいものだったのではないか」と書いたのだが、このような思いは、マリアも自分も罪を犯したイヴという乙女の末裔に生まれた者であり、そのイヴは同じく罪を犯したアダムの骨から生まれた者なのだと捉えるところからきているのではないかと思われる。

しかし、第六歌集『葡萄木立』「後記」には不思議な文章が記されている。

 日向を若い父親に抱かれて子供がやつてくる。日向が眩しいだけではなく、見知らぬ人の顔をみると大きに照れてふにやつとわらひ、目を瞑つてしまふ。「弱々しいやつだ」と口に出して呟けるのは私が息子を通じてこの男の子に濃い血液をわけ與へてゐるからである。だがこの子供は確實に二十一世紀を生きる筈である。(『葡萄木立』後記より)

この文章は後記の後半に現れる。「私にとつては第六歌集にあたるこの『葡萄木立』が作られた期間は、」で始まり「この作品は圖らずもこの一册の歌集の序曲となつた感じがふかいのである」で終わる前の段落に続いて、この一段落が唐突に挿入されている感がある。この文章の後には一行の間があって、歌集に使われた写真の説明等が記されるのだ。
この後記に記されたこの部分は、とても意味深いように思う。私はこの文章から、次のような聖書の言葉を思い起こした。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き・・」(創世記3:15)
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。(創世記3:20)

エバ(イヴ)は罪の女でありながら、しかもそこから救い主が生まれ出る最初の女なのである。

この後記の文章に描かれている「弱々しい」男孫はイエス・キリストに擬えられていると思われる。2000年前に、十字架上で弱々しく死んでいったキリストは、しかし今も生き続けているのである。そして息子を通じてこの男の子に濃い血液をわけ与えている妙子自身は、エバ(イヴ)なのだ。

このように、自分を罪の女と捉える視点から救い主が生まれ出る最初の女として捉える視点への転換は、どこから起こっているのだろうか。以下に『原牛』「あとがき」から抜粋引用してみたい。

 私はそのころからようやく人間一人の限界と、同時に價値をも、あわせて思い知って行ったように思う。(『原牛』あとがきより)

「限界」と「価値」、「弱々しいやつ」と「救い主」、「罪の女」と「救い主が生まれ出る最初の女」、これら二つの間には反転が起こっている。そしてやはり第五歌集『原牛』は、この反転へと向かう転換点となる歌集であるように私には思われる。次のような歌がある。

冬の硝子冴ゆるさみしき あらぬかたに幻聽きこゆる人を抱きゐて『原牛』
石の窓閉ざしたり いちにんの窓を怖るる病者のため
いかなる恐怖は生(あ)るる風の日の窓より卓布の赤き枡目より

これらの歌は、『原牛』の中の「灰姫」の中に、間に何首か置かれながら連なっている。この三首は葛原妙子の短歌の中では良く知られた歌とは言えないだろう。けれど、この三首はとても私の目を惹く。
これらの歌がどういった経緯で生まれたものかは私には全く分からない。けれど、ここには病む者、何者かに怯える者の傍らにあって病者を案じている者の姿が詠われている。まさに、人間一人の限界と、しかしその一人が傍らにいることの大きな価値をこの歌の中に見ることができる。

又、次の二首からも同じようなものを読み取ることが出来るように思う。

耳裂きてかへりし猫のよこたはる雪のごとくに苦しまず死ね『原牛』
くひちがひて嚙みし犬齒をおそれたりわが飼猫を埋めむとして

たとえ自分の飼い猫であっても死んで逝く者を止めることは出来ない。しかしその傍らにあって最期を看取り手厚く葬る。限界を抱えながら最大限のことをなし得る人間の価値。

又、次の一首も短歌としては地味な一首と言えるだろうが、ここで取り上げている観点から言えばとても重要な一首だと思われる。

潮のいろしづかに變る大根の白花(しらはな)の十字そよぎ合へるも『原牛』

この歌は、「弱々しい」印象の「やつ」が救い主へと反転していく予感を与える。そしてこの歌は次のような歌と連動して私に働きかけてくる。

かのひとりご目ひらくごとき藻の花の小さきに白きに悲傷せり『原牛』
聖誕の日のもえさしのらうそくは豪雨なれば夜の壁を照らしぬ

エスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。(マタイによる福音書12:15〜20)

最後に、

人に示すあたはざりにしわが胸のおくどに青き草かれてをり『原牛』
胸の奥深くに秘められた罪。しかし、その罪を認識した時から「罪からの救い」を切望し始めるのであり、求道の道を歩み始めるのである。そしてその道は、「罪」から「救い」へと転じてゆく道なのである。


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http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20120326/p3


藭の世=神の世
期輭=期間
人輭=人間
逭き=青き

特記
この記事はカトリックの信仰を批判、否定するために書かれたものではありません。
私の所属する教会は「使徒信条」の中で「公同の教会、聖徒の交わりを信じます」と告白しています。カトリック教会はこの「公同の教会」に入っています。