風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子36

鉢に盛りし雪の結晶溶けやらず恩寵とは仮空のものながら『朱靈』
「想像によってつくりあげたもの」という意味なら「架空」であるはずだけれど、「仮空」という文字が使われているというのはどういうことだろうか。「仮の」とか「一時的な」ということを表現しようとしたものだろうか。

「ながら」は名詞「もの」についた接尾語で、「〜なのに」「〜だけれども」という意味だと思うが・・。

「鉢に盛った雪の結晶が溶けきらない。恩寵とは一時的なものなのに・・」

妙子は、「恩寵」というものを神から一時的に、一方的に与えられるものだと認識していたのだろうか・・。

この歌は第七歌集『朱靈』の冒頭におかれた第一章「西冷」の二節「雪鉢」の中に収められているのだが、この歌について思い巡らしていて、この歌集の前の歌集である『葡萄木立』の最終章におかれていた「青き木に」の歌を思い浮かべた。この歌に関しては「葛原妙子26」「葛原妙子31」でも取り上げて、私は、この歌を作った時点で妙子は信仰を持っていたと書いたのだが、妙子はここで、この時の「信仰」を「恩寵」に換えて表しているのだろうか、と思ったのだった。「信仰が、一時的に与えられたにすぎない信仰がまだ消えてしまわないで残っている」、と・・。

「恩寵」とは何だろう?「信仰」とは何だろう?「救い」とは何だろう?
葛原妙子の短歌について書いていると、考えて(クリスチャン的に言えば、聖書の御言葉から聞いて)、整理しなくてはならないと思わされることがたくさん出てくる。

私は、突き詰めて考えれば、信仰も神から与えられるものだと思っている。
確かに聖書には、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマの信徒への手紙10:10)と書かれている。私自身も、「葛原妙子35」で「自己の罪の自覚が、信仰告白へと至るためには不可欠であるように思う」と書いたのである。「罪を自覚しなければ信仰を言い表すことは出来ない」と確かに思う。信仰を告白したかどうか、洗礼を受けたかどうかは外から見てもはっきり分かることである。けれど、「救い」について、あるいは「救われたか否か」ということは、神の領域のことであり、私たちが外から見て判断することの出来ない事柄なのではないだろうか。そしてその判断は永遠に保留にしておきたい、と私は思うのだ。

繰り返しになるけれど、

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。(ローマ人への手紙10:9)
確かに聖書にはこのように書かれている。けれど逆に、「信じると告白しなければ救われない」と言い切ってしまえば、罪の自覚も「イエスは主である」という告白もしないまま死んだ幼子は救われなかったのかという疑問が湧き上がってくる。「葛原妙子35」で触れたニーチェにしても、ニーチェは信仰を告白はしなかっただろう。では、ニーチェは救われなかったのかと言うと、そう言い切ることは人間には許されてはいない、と私は思いたい。イエス・キリストというお方は死の世界にまで降り、死者にさえも福音を告げ知らされた(ペテロの手紙一3:19、4:6)お方であるのだから、この世でのあり方だけを見て問題にする私たちには分からない事柄なのだ。それを判断することは人間には許されていないのだ、と私は考える。

聖書には次のように語っている箇所がある。

あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、(ヨハネの第一の手紙4:2)
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(コリントの信徒への手紙一12:3)

つまり、神の霊(聖霊なる神)が与えられなければ、イエスを救い主だと信じる信仰を得ることも、言い表すことも出来ない、ということである。

この神の霊についてイエスが語っておられる聖書の言葉を次に書き出してみよう。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。(ヨハネ福音書14:26)
わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。(ヨハネ福音書15:26)
わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。(ヨハネ福音書16:7~8)
しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ福音書16:13)

これらの言葉を見ると、神の霊(聖霊なる神)によって私たちが理解できるようになるのは罪や義やさばきであるが、一番大きいのはイエスキリストについての理解であるようだ。殊に「イエス・キリストが救い主である」という理解は、(聖霊なる)神によって与えられるのだということが分かる。

恩寵とは何だろう。私の教会ではあまり「恩寵」という言葉を使うことはない。「恩寵」という言葉は「神様からの恵み」という言葉で言い換えられているように思う。「神からの恵み」というのは様々あると思う。毎日の食物もキリスト教的には「神様からの恵み」と捉えられるだろう。けれど、やはり「神から与えられた恵み」としてもっとも大きいのはイエスキリスト御自身なのではないか、と思う。

晩年の葛原妙子はこのイエスキリストにますます集中して目を凝らしているように思われる。『をがたま』の中に詠われたイエスの歌には全て尊敬語が用いられている。そして、この傾向は『鷹の井戸』からすでに始まっている。

市に嘆くキリストなれば箒なす大き素足に禱りたまへり『鷹の井戸』
この歌については「葛原妙子4」で、
   ↓
http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20111109/p2