風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子22

第一歌集『橙黄』には原罪について詠った短歌がある。
ここでは、後に改変され森岡貞香によって異本とされたほうから引用したい。

原罪をうべなふつつしみ缺けし者容れし御堂の色玻璃昏し 異本『橙黄』
この歌は、妙子が娘さん達の通っておられたミッションスクールに足を踏み入れた時に作られたものと思われる。


第三歌集『飛行』には原罪やイブについて詠んだ歌は見当たらないが(私が見落としているだけかも知れないが)、次のような歌を見ると罪を意識している様子が窺える。

草のごとき髪を撫でゐる月ありきわがかたはらにゐるはくちなは『飛行』

『飛行』には、自らが足を運んだ「高原の教会」のことを詠った歌もある。

鳥の巢のごとき高原の教会にこころ逃れてあさきねむりぞ『飛行』
その胸よひた思ふなり肋骨が知慧(ちけい)のごとく顯ちたる胸を
椿の花の赤き管よりのぞくとき釘深し磔刑(たくけい)のふたつたなひら

『飛行』にはソドムとゴモラを詠ったものや自分の中に何か暗いもののあることを詠った歌が多いように思うが、この三首を見ても第三歌集『飛行』には、深い苦しみの中で詠われた歌が多く入れられているように思う。二首目は、十字架上のキリストの胸に浮き出たあばら骨を思っている歌である。苦しみの中で、キリストの苦しみへと引き寄せられていく妙子の姿が心に浮かんでくる。

胸の上に黒き轍のゆきかへりそこに絶え間なし雪のはなびら『飛行』
ほのしらむ雪の夜の途上みしらざるわが死顔に逢ひし悔(くや)しみ

この二首の前には、
薔薇色の煉瓦の壁に吹雪する深夜しらみぬここは外國(とつくに)
という歌が置かれてあって、何か童話の世界に迷い込んだような印象を受ける。『マッチ売りの少女』だろうか。「黒き轍」は馬車の轍のようにも思える。けれど、その轍は胸の上に残されている轍なのである。次の一首には「わが死顔」とあるから、この歌は紛れもなく自らのことを詠っているのだと分かる。幻想のように、物語の中の出来事のように、あるいは眠りの中の夢のように詠いながら、しかしこの歌ははっきりと自らの苦しみを詠っていると思われる。胸の上を車がゆきかえりして通るという、それはどのような苦しみであったろうか、と思う。

『飛行』の中から何首か引用してみたい。

雪の街野山のごとく暮るるときわれは縋らずひとりに立ちたし『飛行』

頤より下に炎(ほ)明りあれば對(むか)ひゐてわれらとことはにさびしき人々

膝の上にあごを乗せくるわが犬をしづかにはらひわれは立ちたり

糸杉がめらめらと宙に攀づる繪をさびしくこころあへぐ日に見き

きつつきの木つつきし洞(ほら)の暗くなりこの世にし遂にわれは不在なり

無籍者のごとく汽車にぞ搖られありきわが行くかたの空しらむまで


第五歌集『原牛』の初めのほうにも、「たかはらの教会」を詠った一連が出てくる。

犬吠ゆる闇の近きに洋菓子のごとき聖壇ともりてゐたり『原牛』
點鉦のあひに赤子のものいへるやまぐにの深夜の彌撒(ミサ)に逢ひたり
あくがれてきつるにあらね ゆきずりの小さき御堂に人充ちてをり
神はあらね攝理はあると影のごとふと隣人の呟きにけり
をりをりは悲痛なるものよこぎらんたかはらの町の風の十字架
犬の毛皮つけたる農夫ありありと夜の教会の椅子にねむりぬ
人に示すあたはざりにしわが胸のおくどに青き草かれてをり
麻の袋にきらめき喜捨の銀貨落つ冬の御堂にはしら立ちつつ

この一連には、教会の中で眠っている農夫やミサに連れてこられた赤ん坊のおしゃべりやぶつぶつと自分勝手な思索を口にしている者の姿が描写されていて、何かほっとさせられる。それは、葛原妙子自身がそれらを受けとめて描写しているところから醸し出されてくる安堵感ではないかと思う。私達は、人の弱さを受けとめ、心の内に受け入れた時に、自分自身の罪も受け入れることが出来るのではないだろうか。いや、あるいはその逆かも知れない・・。


ところで私は『橙黄』の中の次のような歌がとても好きだ。

野葡萄に山の薄ら陽こぼれきぬ云ふべきことのいまは少し『橙黄』


繁會=教会
鄢き轍=黒き轍
絶え輭=絶え間
藭は=神は
逭き=青き