風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子24

鳥の巢のごとき高原の繁會にこころ逃れてあさきねむりぞ『飛行』
その胸よひた思ふなり肋骨が知慧(ちけい)のごとく顯ちたる胸を
椿の花の赤き管よりのぞくとき釘深し磔刑(たくけい)のふたつたなひら
たれかきたり祕(ひそ)やかにいま死を勸(すす)めよ繪硝子(ヴイトロオ)のむらさき黝(くろ)ずむなれば

ゆだやびと花の模様をもたざりきその裔にして生(あ)れしきりすと『薔薇窓』
キリスト繁徒ならざる吾が告解(こくかい)といふをおもへりそは密室の懺悔なり
          ・
人を憎しみねむる睡りのゆれてをりこのねむりなぜにかくも搖るるか
          ・
闇の中に放てるちひさき石つぶて傷つきし樹皮高く匂はん
「葛原妙子23」で、私は、「自らの罪に苦しむ時、キリストの負われた苦しみへと人は引き寄せられてゆくのかも知れない」と書いたのであるが、第三歌集『飛行』第四歌集『薔薇窓』の短歌を見比べていると、少し様子が違っている気がする。苦しみの中でひたすらキリストの苦しみを思う『飛行』の中の歌に対して、『薔薇窓』では、キリストを十字架につけた者として自己を意識する思いがちらちら混じっているような気がする。

汝實る勿れ、とキリスト命じたる無花果の實は厨に影する『薔薇窓』
死の道にあゆみ入りたるキリストは赤き外套を剝がれたまへり
毛の拔けるほど辛き辛子を溶きてをり硝子の微光かぎりしられず


二首目は明らかにマタイ福音書の次の場面を念頭において作られたと思われる。

それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。(マタイ福音書27:27〜31)
けれど、この短歌の前後に「汝實る勿れ」の歌と「毛の拔けるほど」の歌を置いているところがとても興味深い。

『薔薇窓』の中には、この三首から少し後に次のような歌も置かれている。

月の夜にわれゆき合へり薔薇に手を灼きて死にけるかのメフィスト『薔薇窓』
また、次のような歌ははっきりとまだ掴めないけれど、何か気にかかる一首である。

乾きたるわが手にのせしオリーヴの一葉は皮革の憂ひをたもつ『薔薇窓』


繁會=教会
繁徒=教徒