風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子42

生ける鷹旋回しつつ虚空なる高き朴の香(かをり)に遇ひけむ『薔薇窓』
上記は、私の大好きな葛原妙子の歌である。この歌は、塚本邦雄=著『百珠百華ー葛原妙子の宇宙』の中で知った。
最後の部分を引用してみたい。

「生ける鷹」とは言ひながら、血塗れの、あるいは瀕死の鷹であつたと考へた方が、真相により近からう。だが、作者の幻想の中で、作者の愛するこの鳥は、決して乱れず、墜ちず、馴れず、永遠の高みにあつて、遠く飛び続ける。
                         (塚本邦雄=著『百珠百華ー葛原妙子の宇宙』(花曜社)より引用)

ここで「血塗れの」と書かれているのは、この歌の前に次のような二首がおかれているためである。

片つばさ拾ひたるのみ山窪にまざまざしかも斑入り鷹の羽『薔薇窓』
衝撃いたましきかな片翼(へんよく)をうしなひし鷹なほも飛びしや

これらの短歌が掲載されているのは第四歌集『薔薇窓』であるが、『薔薇窓』は第八歌集『鷹の井戸』が出された後に妙子自身の取捨選択を経て出版されたものであるので、個々の歌が作られたのは『鷹の井戸』が出るずっと前であるかもしれないが、歌集『薔薇窓』の中に収められた短歌として見れば、第八歌集『鷹の井戸』との関連、影響といったものが皆無ではないだろう。
その、第八歌集『鷹の井戸』では「覚えがき」の中で、この歌集の集名として「鷹の井戸」がつけられた経緯が語られ、アイルランドの詩人イエーツによって書かれ日本の「能」の演出形式を取り入れた仮面舞踊劇詩「鷹の井戸にて」について詳しく解説がなされている。所々、引用してみる。

 そこで歌集の名が『鷹の井戸』となったのは、・・、その中に左の二首がある。
  につぽんの詩人ならざるイエーツは涸井に一羽の鷹を栖ましめぬ
  大き鷹井戸出でしときイエーツよ鷹の羽は古き井戸を蔽ひしや
               ・
               ・
 物語はケルトの若き英雄クーフウリンが永遠の生命を得ようとして一羽の怪しい女鷹の守る井戸の水を掬みにやってくるのだが妨げられて果たさず遂に去ってゆく話である。
 みぎにみる所の、人間の永生願望の情熱や挫折のパターンは、形を変えながら古来民族の伝承として実に世界の各地に散らばっているように思い、例えば気が遠くなる程昔の、メソポタミアの英雄ギルガメッシュの遍歴などにも似通う部分があると思うのだが乱暴だろうか。
 だがある日、ある時、ある種の英雄はこつ然とこの迷妄から覚める。そして解き放たれる。これはよい。ことに死ぬべきわが身を覚悟の上で再び立ち上がり、生きようとする勇気はさらによい。
               ・
 この井戸は飲めば直ちに呪縛されるたちのものであり、しかも常は殆ど水がない。偶々湧くとしても僅かに井戸の底を濡らす程度のものなのだが彼らは求めた。そこで若者と水、老人と水、との関係を、私は今、ここで苦しく思う。四十年前には思わなかった人間と水、との関係をー
               ・
               ・
 ときに私の内側も外側も何となく変わってきてはいないだろうか。
 老いる不安はもとより、老いる大胆のごときものが雲のように通り過ぎることがある。うつくしいとおもっている。
                     (砂子屋書房刊『葛原妙子全歌集』「鷹の井戸」「覚えがき」より抜粋引用)

エスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」ヨハネによる福音書4:13〜15)


朝焼のながるる中に立ちてゐる老いし柿の木若き柿の木『鷹の井戸』
晦冥となりしゆふぐれ一本のわが髪にくるうすばかげろふ
カザルスは老身なれば会堂の大き拍手にゆらぎたまへる
失明者記憶せりけるサーカスは黄の大きなるだんだらなりにき
五十歳の父過ぎにける黄金樹やがてして五十歳の息子過ぎむか
                   ,
わがおもてことざまなりや童女いふ「死ぐときも口紅(くちべ)つけてる?」
紙のごとくうすく伸(の)したるハンカチを仮睡のわれにこどもは被せぬ
タナトスと囁くこゑすけむりぐさいつくしきけむりぐさをぞ喫ふ
爪生え替わり 髪の毛生え替わり 白歯わたくしに生え替わらず
病身をやしなふ褥やはらかき肉体といふ気味わろきもの
あはれなるわれ箴言をそらんずる「死と太陽直視すべからず」

一生理作用にあらむ死とおもひ生とおもひて月の差し出づ『をがたま』


「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(コリント人への第一の手紙15:55)


かすかなる灰色を帯び雷鳴のなかなるキリスト先づ老いたまふ『をがたま』
朴の木も橅も虚空にそばだつを夜陰の樹間いなびかりせり
(よ)りかかるキリストをみき青ざめて苦しきときに樹によりたまふ

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマの信徒への手紙6:4)
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマの信徒への手紙6:23)
神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。(ユダの手紙21節)