風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「衣の中に」(志村ふくみ=著『色を奏でる』より)

      衣の中に

  清涼寺の楸(ひさぎ)で染めた灰色は
  山門や、塔のまわりを群れて飛ぶ
  鳩の羽いろ
  淡(うす)ねずみに、紫すこし、茶をすこし
  筒の中から振りかけて
  うっすら夕靄(ゆうもや)のかかった♭(フラット)の鳩羽鼠(はとばねずみ)
  どんな色も黙って静かに受け入れる
  無類に優しい色である。

  あたりの色を自分の中に抱きこんで
  自分は透きとおってしまう色
  そのあたりにぼおっとにじむ
  やわらかい光背。

  もしできることなら
  苦患や、絶望のふかいところで
  身を砕き、心を砕いて
  黙って働いている女のひとの
  その衣の中に
  私は楸いろのほんのすこしの優しさを
  織りまぜておきたい。



 灰色の世界

 ジャコメッティは「すべての色の基調は灰色(グレー)だ。パリが好きなのもその灰色のためだし、人生そのものが灰色ではないか」といった。それにたいし宇佐見英治さんは、「人生はもともと灰色ではあるけれど、三日のうち二日が灰色で、一日が薔薇(ばら)色に感じられたら、それは最良の日ではないだろうか」と答えたと言う。
 その一日の薔薇色は灰色の磨(す)りガラスをとおして見える薔薇色ではないかと、そう思ったのは私である。
 すべての植物染料の基調色もじつは灰色なのである。植物を炊き出した液の中に何が交じっているのか。樹液か夾雑物か、アルファが交じっていて、それがすべての色彩に灰色の紗幕(ヴエール)をかける。
 植物染料の色がどこかしっとり落ちついているといわれるのはそのためである。化学染料のようにきっちり割り切れるものではなく、どこかに不純物が交じっているが、色そのものはそのために濁るのではなく、本来の色をきわ立たせる。
 不純物が交じりながら純粋な色彩というのは一見矛盾しているようであるが、事実なのである。この場合、色が影を宿しているといえばよいのか。灰色はその影の部分、いたわりとやさしさの部分なのである。
                             (志村ふくみ=文『色を奏でる』(ちくま文庫)より引用)