風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子41

郭公の啼く声きこえ 晩年のヘンデル盲目バッハ盲目『鷹の井戸』
第八歌集『鷹の井戸』にはこのような短歌が収められている。けれど葛原妙子の年譜を見れば、この短歌が単にヘンデルやバッハのことを詠ったものではないことが分かるだろう。妙子76歳の年に「十一月、視力障害のため「をがたま」は秋号を最終号として終刊のやむなきに至る。」(『葛原妙子全歌集』(砂子屋書房)巻末年譜より)と記載されている。第七歌集である『朱靈』を見ていると、この頃から視力障害の兆候があったのではないかと思わされる。

老医師がわが眼底をのぞきつつつぶやきたることば短し『朱靈』
両眼をとぢておもへばすなはち盲目とは密雲の如きか
石塊を抉り刻める天使像直陽(ちょくやう)のもとまなこをうしなふ
隻眼のふかく盲ひたる石(せき)天使劃然と移る西日に立てり
夜釣の水中ほどに明るめるわが眼底に草の陽は差す
チュルリ チュルリ 暗黒にこそ音は刻め草より飛びし草鴫のこゑ
さながらに盲目の杖 くらがりに鴫のとぶなる長きくちばし

又、第八歌集『鷹の井戸』を経て、死後に纏められた第九歌集『をがたま』では次のような歌が詠まれている。

夕鳥ら騒ぐか やがてくらくなりやがてめしひとならん身のため『をがたま』
ひしめきて金網に嘴(はし)を触るる者毳立つ鳥ら夕陽に騒ぐ
落日の余光曝(さ)れたる西空にむかひてやまぬ籠の鳥騒(とりさゐ)

「やがてめしひとならん身」とは、一般に夜になって目が見えなくなると言われている籠の鳥のことだろうが、妙子自身の不安や悲哀や胸騒ぎを鳥騒に託して詠っているということは明らかに言えるだろう。

第三歌集『飛行』の中で「審(さば)かるるものの質ありさびしきとき美しきものを凝視する瞳(め)に」と詠った妙子にとって、目が見えなくなるかも知れないということはどういったこととして受け止められただろうか。私には推量することさえ難しく感じる。

鳥とは全く異なる植物であるチューリップを詠んだ歌が『朱靈』『をがたま』に収められているが、この二つの歌集の歌を見比べる時に、老いや病に向かう妙子の思いの動いていく様が分かるように思う。

球根よりますぐにいでて寂(しづ)かなるみどりの柄なりし白きちゅうりっぷ『朱靈』
春草のいただきに白き花咲きてほろびしゆゑに土の匂へり
咲きをへし緋のちゆうりつぷ球根のいたく痩せしをてのひらに載す
『をがたま』

このような歌を踏まえながら『をがたま』の中の次の歌をもう一度読み返す時、妙子のキリストへの信仰を考える上でこの歌の持つ意味の大きさを改めて思わされる。歌の中に込められた妙子のキリストへの信仰が私に切々と迫って来るように感じられるのである。

かすかなる灰色を帶び雷鳴のなかなるキリスト先づ老いたまふ『をがたま』

わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ書46:4)
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