風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子30

クリスマス・イヴを持たざる童女たち凍みし路面に石蹴りて遊ぶ『橙黄』
この歌の前後には、次のような短歌が連なっている。

母子寮に燈(ひ)の入るが見ゆ電燈のほそきコードと主婦の影ゆれ
寡婦たちを支ふるさびしき歌のありつよく脆くきりきりとすさぶときよし
電熱器あはあはとともし夜勤終へて寄りたる未亡人(とも)の熱き目にむかふ
三文小説の主人公になるなとはげまして霧濃き夜の道をおくりぬ

けれど、第一歌集『橙黄』が出版された24年後に三一書房から出された『葛原妙子歌集』の中の『橙黄』に入れられた短歌は、上記の中からは「寡婦たちを」の歌一首だけであった。

「クリスマス・イヴ」という言葉の中には憧憬が込められていると思う。この世にはない温かみを持った何かを「クリスマス・イヴ」は持っているーこの歌の中の「クリスマス・イヴ」という言葉からは、妙子のそんなふうな想いが受け取れるように思う。しかし、『葛原妙子歌集』が三一書房から出される時までには妙子は自分の罪に十分に向き合っていただろうから、このような甘やかな憧憬を込めた歌はその時の妙子の心情に合わなかっただろう。であるから、自ら改作、訂正、削除を加えた『葛原妙子歌集』の中の『橙黄』には加えられなかったと思われる。


では、罪とはいったい何だろうか。
葛原妙子はやはりキリスト教的なものに向かって罪を捉えていたであろうから、キリスト教では罪というものをどう捉えているのかを先に考えてみたい。
新約聖書が書かれているギリシャ語で、「罪」と訳されている「ハマルティア」という言葉は「的外れ」という意味を持った言葉のようだ。この言葉から言えば、「罪」とは「的の中心から外れている」ということになる。だから教会の中で良く言われるのは(と言っても、私には、私が聞いてきた範囲でしか言えないのだが)、「罪」とは「中心(つまり神)から離れていくこと」、「神からの離反である」ということだ。そしてその「罪」に対して「悔い改める」というのは、「方向を転換して神の元へ帰ることである」ということになる。けれど、このような簡略な説明を聞いただけでは、元々神の元にいなかった私達には「罪」というものがピンと来ないように思える。少なくとも私にはピンと来ない。このような罪の説明を聞いて、この「罪」に苦しむ、あるいは、この「罪」から救われたいという想いは起こってこないように思う。
そして妙子もこのような罪の捉え方はしていなかったのではないかと私は思う。


そこで、聖書の中で「罪」がどのように言われているか、先ず、パウロの書簡であるローマの信徒への手紙から考えてみようと思う。

律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。(ローマの信徒への手紙5:13)
教会で「罪、罪」と言われると、「私はこれまで人を殺したこともないし、人から何かを騙し取ったこともない。まぁ、スピード違反で罰金を払わされたことは一度だけあるけれど、そんなに責められるほど酷いことをした覚えはない」と思ったりする場合がある。これは、自分の罪というものを法律というものに照らして捉えているということだ。「律法がなければ罪は罪と認められない」というのは、「基準となる法律に照らし合わせて初めて自分の罪がはっきり理解できるようになる」というのと等しい。

罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。(ヨハネの手紙一3:4)
けれど、パウロは上記ローマの信徒への手紙5:13で「律法が与えられる前にも罪は世にあった」と言っている。ここで言われている律法とはモーセ十戒だろうが、十戒が与えられる前にも罪は、ただ私達にはっきり理解されなかったというだけで、存在していたと言っているのだ。では、いつから存在していたのか。アダムが禁断の木の実をとって食べた時から、である。(旧約聖書の中で「罪」と訳されている主なヘブライ語、「ハッタート」は、「違反」という意味を含んだ言葉のようだ。)すると、アダムが神からとってはいけないと言われていた木の実をとって食べたことがそんなに大きな罪に問われるのかというふうな疑問が次に湧き起こってくる。

けれどここでは、そのことを考える前に、アダムが誰に似せて造られたのかということを先ず考えたいと思う。

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。(創世記1:26)
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1:27)

ここで言われている「我々」というのは、キリスト教でいうところの「三位一体」という教理と関わっていると思われる。キリスト教の神は唯一でありながら、父なる神と、子なる神であるキリスト、そして聖霊なる神の三つの位格(ペルソナ)を持つとされている。これは理解するのに難しいように思われるが、カトリックからプロテスタントのどの教派においても共通に理解されている事柄である。つまり神は三つの位格を持ちながら一つに統合されたお方だと言える。もっと言うなら、神とは「三つの異なる位格を持ちながら交流し、和合しているお方である」ということが言える、と私は思う。それは、「愛」という言葉で言い表すことができる事柄である、と思う。三つの異なる位格を持ちながら交流し和合しておられる神の中にあるものは「愛」である、と。

このようなところから私は、この「我々にかたどり、我々に似せて」というところを「愛の神に似せて」と解釈する。「人は愛の神に似せて、愛し合う者として造られた」と。

しかし、愛というのは自由が前提になければ成立しないものなのである。何らかの制約があって、断るという選択肢がない関係には愛は存在し得ないと言える。それは隷属に他ならない。
人は愛の元に造られたから、神から取ってはならないと禁じられた木の実を取って食べる自由も与えられていたのである。そして人は取って食べた。
しかしその行為は、愛する者として造られた自分自身を損なってしまう行為だったのである。愛し合うことのできなくなった人間は、取って食べた直後から罪のなすり合いを始める。
この最初の人、アダムの行った禁じられた木の実を取って食べるという行為は、神との間の愛と信頼を損なう行為であり、人と人との間の愛をも壊してしまう行為であったと言える。


文学作品の中で、この原罪がテーマに据えられていることがある。そして、その原罪を性的な行為として捉えて文学作品を解釈しているものを時折目にすることがある。けれど、性行為そのものは決して罪ではないのだと思う。むしろ聖書的に捉えるなら性行為は、創造の時には「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28)と言われて神から祝福された行為であったのだ。又、ノアの時代の洪水の後にも、神は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9:1)と、ノアと息子たちを祝福しておられる。
又、神が男のあばら骨を取って女を造られた後、「男は妻と結び合い一体となるのだ」(創世記2:24)と言われ、ここを受けて、エペソ人への手紙では、「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである。この奥義は大きい。」(エペソ人への手紙5:31~32)とまで言われているのだ。
ただ、罪に堕ちて愛という基盤が壊れてしまったために性行為は自分本位となり、本来喜びであったはずのものに翳りがさすようになったということだと私は考える。
葛原妙子も、性行為そのものを罪とは捉えていないと思う。ただ、堕罪の後に「お前は、苦しんで子を産む。それでもなお、お前は男を求める」(創世記3:16)と神から規定されてしまった女性の性を悲しんでいるというふうには思えるが・・。


さて、私は、「罪とは愛せないということである」と結論づけたいと思う。そして妙子も、この「愛せない」という罪に苦しんでいたのだと考える。第三歌集『飛行』で詠われていた苦しみは、正にこの「愛せない」という苦しみに他ならない。

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。・・・・ここに愛があります。(ヨハネの手紙一4:9~10)
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。(ヨハネの手紙一4:16~17)
目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(ヨハネの手紙一4:20~21)

クリスマスの出来事というのは、愛の壊れた私達の世界に神から愛が贈られたという出来事なのである。キリストは正に愛そのものであったのだ。しかし人は、その神から贈られた愛そのものを拒絶し十字架の上に捨てたのだ。これは一人の例外もなく人類全員が捨てたということを表している。罪というのは連鎖していくからである。キリスト教的に捉えられるこの罪は、キリストの十字架上で最も明らかにされる。アダムが堕ち、全人類の上に拡がった罪は、「愛し合う者として造られた者が、愛し合うことを捨て去った」という罪であったからだ。

第四歌集『薔薇窓』で妙子が向き合っていたのは、この、愛を拒絶し十字架上に捨てるという罪を自らも抱え持っているという事柄だったに違いない。そういう罪に向き合ってきた妙子には、「クリスマス・イヴを持たざる童女たち」の歌を歌集の中に入れることなど最早できなかった、と思う。


第六歌集『葡萄木立』の中で「みえがたき花咲けるゆふぐれ」と詠った妙子であったが、第七歌集『朱靈』では次のような歌を詠っている。

みたび主を否みしのちに漁夫ペテロいたく泣きしをわれは愛せり『朱靈』
第七歌集『朱靈』の中では、妙子は裏切りの罪と向き合っていくことになるのである。