毎週水曜日の祈りの会で行われている講解説教で「ルツ記」が終わった。
たった四章だけの短い物語なのだが慰めに満ちていた。
「ルツ記」というと、ミレーの絵画で有名な「落ち穂拾い」の場面が出てくる物語である。
あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である』」。(レビ記23:22)
あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。(申命記24:19)
姑ナオミについて異邦の地モアブからベツレヘムに来た寡婦のルツは落ち穂を拾いに出かける。他国の寄留者や孤児や寡婦たちに落ち穂を拾わせることは神からの命令であるが、畑の主によっては落ち穂を拾いに来られるのを快く思わない者もいたことが、ナオミの次の言葉で分かる。
「娘よ、その人のところで働く女たちと一緒に出かけるのはけっこうです。そうすればほかの畑で人にいじめられるのを免れるでしょう」。(ルツ記2:22)
ナオミは飢饉のためにベツレヘムを去りモアブの地に行くが、夫と二人の息子を亡くし、失意のうちにベツレヘムへと戻る。ベツレヘムに着いたナオミに声をかけてくる旧知の者たちにナオミが返す言葉が心に痛い。
ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。(ルツ記1:20~21)
私達の人生においても、しばしば何のために生きてきたのだろうと思わされるような人生を歩む場合がある。自分でも、又、傍目にもそのように見える人生を生きている場合がある。
けれど、子孫に救い主が生まれると神から約束されていたイスラエルの民にとっては、自分の家系に最早子どもが生まれないということは神から見捨てられたと等しいと捉えていたようであるから、ここのナオミの嘆きは自分の人生だけでなく未来への希望をも失った状態だったと言える。
イスラエルの民に神が与えられた戒めは民が平和のうちに生きて行くためのものだが、この中には、夫が亡くなった家に対しては家系を絶やさないように親戚の中から近い順に責任を負わなければならないという戒めもあったようだ。
ルツ記の最後には、この責任を負ったボアズによってルツが生んだ子どもの子孫からダビデが生まれたと記されているが、ダビデの子孫からはイエスキリストが生まれ出るのである。けれど、ナオミはそんなことは知らないで死ぬのだ。
私達の人生も傍から見れば不幸に見える場合がある。自分でも不幸だと思ったまま終わる、という場合もあるだろう。しかし、神の戒めに従って生きる時、その人生はむなしくは終わらない。神の与えて下さる戒めの中には慈しみがあるからだ。
コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、
すべては空しい。
(コヘレトの言葉1:2)
空しいと思える私達の人生を、神は用いて救いの御業をなしてくださる。私達の人生は決して空しくは終わらない。イエスキリストが到来した後に生きている私達は、ルツ記を通して、聖書を通してそのことを知らされている。
ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。(マタイによる福音書1:5~16)