風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

イザヤ書6章9〜13

主は言われた。「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。」
わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」
主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく 家々には人影もなく 大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
なお、そこに十分の一が残るが それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。(イザヤ書6:9〜13)

不可思議な言葉だ。けれど、じっと見ていると、「私たち人間はなかなか罪を自覚することが出来ない」という事実が見えてくるように思える。全てがなくならなければ分からない。ほんの少しでも何かが残っていると分からない。そんなことを思わされる。
人間の罪が極まったところでキリストの救いが現れる。命がけの業がなされる。そんなことを思わされる。