神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」
女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(創世記3:11~13)
ここを読むと、罪は、人に言い訳をさせる、と思わされる。
そして他者に自分の罪をなすりつけ、最終的に、神に自分の罪の責めを負わせるのだ。
悔い改めて立ち返らなければ、平安は得られない。
では、悔い改めるとはどうすることだろうか?
悔い改めて立ち返るとは、端的に言えば、自らの罪を認めて謝るということだろう、と思う。
憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。…。
あなたに対して罪を犯したからにほかなりません。(ダニエル書9:9,11)
では、罪とは何だろう?ダニエル書で言われているのは、神への背きである。
ダニエル書9章9節と11節の最後の間には以下のような言葉が記されている。
あなたの僕である預言者たちを通して与えられた、律法に従って歩むようにという主なる神の声に聞き従いませんでした。イスラエルはすべて、あなたの律法を無視し、御声に耳を傾けませんでした。ですから、神の僕モーセの律法に記されている誓いの呪いが、わたしたちの上にふりかかってきたのです。(ダニエル書9:10~11)
ここでは、神から与えられた律法に従わなかったから、と記されている。
しかしここで言われていることは、古代のイスラエルにだけ語られていることではない。
今を生きるキリスト教徒にも語られている言葉なのである。何故なら、イエス・キリストが戒め(律法)の第一を「主なる神を愛する」ことと定められたからである。
聖書には愛することの全てが記されていると考えられる。
どのようにして神を愛するのか、どのようにして隣り人を愛するのか。どのようにしたから神を愛さないで神から離れてしまったのか、どのようにしたら隣り人を愛するどころか痛めつけることになるのか。
それら全ての愛することについて書かれた書物が聖書であろう、と私は思う。
キリスト教徒が、神から離れて、人からの賞賛を求めて、自分の心に甘い言葉ばかりを求めてふらふらと彷徨い歩くのは、神をないがしろにする行為、神への背きに他ならない。
神はそのような者に怒りを発しないではおかないだろう。私たちの神は「妬む神」だからである。
このような者は、神に向かって、背きの罪を自覚して悔い改めなければ、平安を得ることは出来ない。
人に対して罪を犯した場合も同じことが言える。人に対しても罪を認めて謝罪するのでなければ平安を得ることは出来ない。
だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。(マタイ福音書5:23~24)
ここの御言葉なども、この前に「兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない」(5:22)というイエスの言葉が置かれているために、うらみを抱かれている者がうらんでいる者に対して赦さなければいけないと、自分に都合良く解釈して用いる場合が時としてある。しかし、ここで言われているのはうらみを抱かれているなら、行って赦しを請うて仲直りをしなさいということだろう。罪を認めて赦しを請うのでなければ平安は得られないのである。