風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

 「癒やしと救い」(マルコによる福音書5:21~34)

 「癒やしと救い」

 

  2024年1月7日(日) 降誕節後第2主日

聖書箇所:マルコによる福音書  5章21節~34節

 
 先週は5章の1節から20節までのみ言葉から聞きました。今朝はその続きとなります。

 イエスは嵐を乗り越えてゲラサ人の地方へと渡られ、1人の汚れた霊に苦しむ人を癒されました。しかし、その癒しは,その地の人々の財産である豚を犠牲にしたため,他の人々からは喜ばれませんでした。人々はイエスに「この地から出ていってもらいたい」と言い出しました。そして、ゲラサの人々の求めに応じたような形で、イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られたことが今日の冒頭の21節で語られています。向こう岸につくやいなや、再び、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは湖のほとりに留まっておられました。そこへ会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、強くこう願いました。23節「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

 会堂長というのは、礼拝の責任者で、司会をし、ふさわしい人に、祈りと聖書朗読、そして勧めをすることの依頼をし、また許可を与える役割を担っていました。さらに、会堂長は、律法を教え、裁判を行い、その地方の事件の処理を行うという大変責任の大きい務めでした。

 その会堂長の職にあるヤイロがイエスを探してやって来て、その足もとにひれ伏して、今にも死にそうな娘のために、懇願するのです。

 イエスはその願いを聞き入れ、ヤイロと一緒に出かけていかれました。集まっていた群衆も、イエスが癒しを行われるのを見ようと、その後に従い、押し迫ってきました。

 その場には、目立たぬように身を隠しながらイエスに近づく1人の女性がいました。彼女は出血が止まらないという女性特有の病気で苦しんでいました。しかも12年間も苦しみ続けてきました。彼女は多くの医者にかかりましたが、治ることはなく、かえって苦しみはひどくなりました。彼女は治療のために全財産を使い果たしましたが、何の役にも立たず、ますます悪くなるだけでした。今から約2000年も前のことですから、治療とはいっても、現代から見れば、まじないのようなもの、迷信のようなものも含まれていたんだと思います。 彼女は苦しみ続けました。その彼女の耳に、イエスのうわさが入ってきました。彼女はそのうわさを聞いて「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思い、望みを抱きました。そして、群衆の中に紛れ込み、イエスに近づき、後ろからイエスの服に触れたのです。 すると、彼女はすぐ出血が全く止まり、病気が癒されたことを体に感じました。 そのとき、イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づき、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と尋ねたと30節に記されています。弟子たちは答えました。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは触れた者を見つけようと、辺りを見回されました。

 押し迫る群衆の中で、振り向いて、見回すだけでも決して容易ではありません。弟子たちは、イエスが何を言っているのか分かりませんでした。大勢の人が取り囲んでいるのですから、何人もの人がイエスに触れてしまうのは当たり前です。それなのに『誰がわたしに触れたのか』というのは馬鹿げています。とりわけ、一刻も早く娘のところへ行ってほしいと願うヤイロは、気が気ではなかったと思います。

 しかし、イエスは彼女が自分を捜しているのがよく分かりました。けれども、彼女は律法に違反して、この場に出てきていました。レビ記の規定では、出血をしている間は、その女性は汚れており、その女性の使った物、またその物に触れた人も汚れるのです。そのことがレビ記15章の25節から27節に記されています。ですから、出血をしている女性は、人の集まるところには出ていってはならない決まりになっていました。

 先週も少し学びましたが、「汚れ」という考え・意味について見てみたいと思います。先週は、聖書の「聖」、「聖なる」の「聖」は「神のものであることを表し」、一方、「汚れ」とは、「神のものとはならないことを表す」と学びました。つまり、「汚れている」は、きれいか・汚いかではありません。また、道徳的に正しいか・間違っているかでもありません。神と共にあることができるか、そして、神のもとで、人々と共にあることができるかどうか、ということが聖書における「汚れ」の尺度です。ただし、律法で言われていることの中には、衛生的な問題も含まれていますし、信仰の熱心さによって、健康に支障をきたさないよう配慮されたものも含まれていました。

 彼女は、この掟、律法に従わず、内緒でこっそりと出てきたのです。誰にも知られずにイエスの衣に触って、すぐに帰るつもりだったのです。彼女は苦しんできました。12年間、ありとあらゆることを試しました。お金も使い果たしました。この病気のために、彼女は、社会に出ていくことができませんでした。礼拝にも行くことができませんでした。神のもとに進み出ることもできなかったのです。彼女は孤独な12年間を過ごしてきました。今、彼女はイエスの力に希望を託して、律法に反することを承知の上で、出てきたのです。

 その彼女をイエスは探しています。彼女が名乗り出てくるのを待っておられます。彼女はイエスの服にさわっただけで、12年間も苦しんできた病気が癒されたこと、大勢の人にまぎれて後ろから服に触れただけなのに、イエスは何が起こったかをご存じで、自分を捜していることを知りました。それと同時に恐ろしくなり、震えながら進み出て、イエスの前にひれ伏してすべてをありのままに話しました。

 この彼女に対して、イエスは、34節「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と祝福の言葉を述べました。

 イエスは、ここで「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。しかし、彼女の信仰は、12年も苦しんだ病気を癒すほどの強い信仰だったのでしょうか。彼女の信仰は「イエスの服にでも触れれば癒される」という言わば迷信的で、御利益信仰ではないでしょうか。

 この迷信的御利益信仰を、本当の信仰に変えたのは、イエスでした。病気が治ればそれでいいということであれば、何も彼女を見つけださなくても良いのです。密かに「病気が治って喜んでいる人がいる。良かったな。」と思えばよいのです。しかし、イエスはそうされませんでした。イエスは彼女を捜し続け、彼女が名乗り出てくるのを待たれました。なぜなら、このままでは、彼女は、癒されはしましたが、救いを受けることはできないからです。

 癒しと救いとは同じではありません。病気は治っても人生は続くのです。そして、その人生の中では次々と試練が襲ってくるのです。そして最後には「死」がやってきます。イエスは、この病に苦しんだ女性に救いを与えたいと思われたのです。病気の苦しみを取り去るだけでなく、人生のすべて、その最後まで、さらに来るべき人生における完全なる平安をイエスは与えようとしておられるのです。

 しかし、このイエスがお与えになろうとしている救いを受け取るためには、イエスの前に進み出て、イエスと出会い、イエスから受けた恵みを告白しなければなりません。それは、イエスがお与えになる救いが、目に見える物ではなく、目には見えない、神とわたしたち一人ひとりの愛と信頼による結びつきだからです。わたしたちのこの世の生活においても、目には見えない愛情や友情によって結ばれた愛と信頼の関係が必要です。それと同じように、祝福をもって世界を造り、わたしたち一人ひとりの命を造られた神と深い愛と信頼によって結び合わされることが必要なのです。神と出会い、前に進み出ることで、このわたしの命が祝福されていること、神がわたしを忘れずに覚えていてくださること、このわたしを救い、共に生きたいと神ご自身が願っておられることを確信することができるのです。どんな時もわたしを愛してくださる真の神と出会い、結び合わされ、確かな関係が築かれるとき、わたしたちは救われるのです。その時、わたしたちは、決して孤独ではなく、祝福が尽きることもありません。

 イエスは、誰が自分の服にさわったか知っておられたかもしれません。しかし、イエスは待たれました。信仰は、主の呼びかけによって始まります。迷信的であり、御利益主義的な信仰であったかもしれません。しかし、そこに主の呼びかけがあり、招きがあり、それに応えるとき、そこに新しい信仰が始まるのです。キリストの呼び声は、わたしたちを多くの人の中から導き出し、神の似姿に創られたかけがえのない喜びに満ちた命の祝福に与らせてくださいます。

 わたしたちの信仰も自分の願い通りうまく行く人生を求める御利益主義的な信仰になりがちです。けれども、自分の罪や弱さを知りつつ、恐れながらおずおずと進み出るわたしたちに対して、主はきょうも「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言ってくださいます。恐れ、震えながら進み出て、ひれ伏して、すべてを話したわたしたちに与えられるもの、それは平安です。

 信仰は主の言葉によって引き起こされます。主の言葉によって目覚め、進み出るとき、わたしたちには新しい人生と限りない平安とが与えられるのです。

 どうか、この1年、主の呼びかけ、招きに、耳を傾けて、前に進み出て、絶えず信仰を新たにしていきたいと思います。

祈ります。