風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

良い説教とは?(説教についてしつこく)

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ところで信仰における第一の問題は、「人間が何をするか」ではなくて、「神が私達人間のために何をしてくださったか」、そのことにあるのです。そのように言って良いかと思います。その神が私達のために何をしてくださったかということを知らせるのが、この16節であります。

 

良い説教とは、どういうものだろうか?

 

上のお説教で語られていることは、つまり聖書の登場人物である人間が何をするか、あるいは「したか」ではなく、神が、人としてこの世に来られた神の御子イエス・キリストが何をしてくださったかということを知らせるのが説教だと語っておられるのだと思われる。

 

ある先生は、説教とは罪の赦しの宣言だと言っておられた。

 

以下は、6月25日の引退教師によるお説教の後半部分の原稿からの書き起こし。

実際に語られたものと原稿とでは少し違っていますが、原稿の書き起こしで掲載させて頂きます。

「あなたを罪に定めない」(ヨハネによる福音書8:1~11)

4.この女は救われたか

 さて、聖書は、みな去ってしまった後に、罪の女以外に主イエスおひとりしか残っていなかったと記している。この「ひとり」という言葉は大切な意味を持っているからである。この女に石を投げて処刑できる者は主イエスおひとりしかいないということを示しているからである。この女もそれを知ったのである。と言うのは、自分をとがめる律法学者やファリサイ派の人々そして群衆がみないなくなったとき、「お陰様で命拾いしました」と一言礼を言ってこの場から逃げ出そうと思えばできた。しかし、彼女はそうしなかった。自分を罪に定め、処刑できる者がいなくなったと知りつつも主イエスの側から離れなかった。いったんは、死刑を覚悟し、自分の罪の恐ろしさを知ったのである。そして、同時に、この自分を裁き、死刑にできる唯一の方を見出し、その側から離れず、主イエスの裁きに身を委ねた。これは、単なる推測ではない。彼女が、主イエスに「主よ」と呼びかけているのが何よりの証拠である。彼女は、その主から思いがけない赦しの宣言を聞くことができた。それが、「わたしもあなたを罪に定めない」というお言葉である。

 さて、この赦しの宣言は、安易なお言葉ではない。罪の女にこのお言葉を語れることには主イエスの犠牲が伴っていた。(略)

 

5.新しい生活

 最後に、主イエスは、この女に「もう罪を犯してはならない」と言われた。彼女は、犠牲を払ってまで罪の赦しを宣言し、救ってくださったことを知り、悔い改めて新しい生活を開始することとなった。後に、十字架の御苦しみと死を目撃し感謝を新たにしたことであろう。(略)罪の処罰が歴史的にはっきりしない(十字架のない)赦しは悔い改めをもたらさない。悔い改めのない救いは本当の救いではない。

 

 

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