風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「教会の使命」(使徒言行録3:1~6)

今日の礼拝では、2021年のペンテコステのために用意されたが、コロナで礼拝が休止となったため語られなかったお説教が、引退教師によって語られた。

 

説教題が、「教会の使命」と改められて、4月から新しい歩み出しを始める教会のために相応しいお説教であった。

 

このお説教は、語られなかったために、「イエス・キリストの名によって」という説教題で、2021年7月号の『聴く』にも掲載させて頂いている。

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 聖霊が人間の歴史の中に下ったのは、約2000年前のペンテコステが最初であった。聖霊は、父なる神、子なる神と同様、真の神であるから永遠の昔から存在しておられた。しかし、ペンテコステまでは直接人間にみわざをなさることはなかった。父なる神と子なる神を通してなさっておられた。そのお働きは人間に対して間接的であった。初めて、直接的にわたしたち人間に働かれたのはペンテコステ以後であった。そして、その最初のみわざが教会を建設することであった。教会という群れを形成されたのである。以後、聖霊は今日まで教会を通して働かれ、主イエスが成し遂げられた罪の贖いと赦しと復活の生命をわたしたちのものにしてくださっているわけである。21世紀に生きるわたしたちは、最初の弟子たちが受けた救いと同じ救いを受けているのである。地理的にイスラエルから遠く離れ、時間的に2000年以上も経っている。しかし、本質的に全く変わりない救いをわたしたちは、聖霊なる神によって教会を通して与えられている。主イエスは、最後の晩餐の席で弟子たちのために祈られたが、その祈りの中で「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」と言われた。主イエスは、ご自分がこの世に生きて存在されるのと同じこととして、弟子たちつまり教会のこの世における存在の意義を語っておられる。約2000年前に神の独り子である主イエス・キリストが、誕生し、生きて救いのみわざをなしたと変わりなく、キリストのみわざが教会を通してなされているのである。教会が建てられているということは何と大きな恵であろう。前置きが長くなってしまった。

(略)

 この出来事は、使徒ペトロとヨハネとが午後3:00の祈りの時に神殿に上ったことから始っている。この「午後3:00の祈りの時」とは、ユダヤ教の習慣で、この他に午前9:00と正午とで一日3回神殿に行って祈りをささげなければならなかった。ペトロもヨハネも、すでにキリスト者になっていたが、守り続けていたわけである。この事実は、当時のキリスト者は一気にユダヤ教の習慣を完全に捨て去っていなかったことを示している。従って、土曜日の安息日も守っていたであろう。しかし、後にユダヤ教の習慣から離れ、完全に日曜日に礼拝を守るようになった。このことは、仏教的慣習の中で育ったわたしたち日本人がキリスト者になるという時に経験することである。一気に、すべてキリスト教的になるわけでなく徐々に変えられて行くことだからである。

 話は少しずれるが、明治時代に、あまり有名ではないが、田中 達という仏教の高僧がいた。こんな文章を残している。「モーゼ教をキリスト教に比し来れば、素より不完全なりといえども、イスラエル人の準備の時代には、キリスト教に優りたる宗教なりしなり。仏教また2千年来の東洋国民のために、キリスト教の来らざる以前にありては、キリスト教に代わりて、幾分の慰め、希望奨励を国民に及ぼしたるは、わが輩の明らかに認るところにして、またこれを仏教に謝せざるを得ず。されど今やわが国民はまさにキリスト教を歓迎せんとす。仏教すべからく勇退すべきなり」と。

(略)

 お金を期待している男をじっと見つめながら、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。「ナザレ人イエス・キリストの名」とは、イエス・キリストのご人格とそのみわざの固有のものを表している。十字架による罪の赦しと復活の命である。主イエス・キリストの名によって、生まれつき不自由な足が癒され、立って歩くことができるようになった。ここで注目したいのは、「立ち上がる」という語は、「復活する」と同じ語であるということである。この男は、罪の赦しと復活の命が与えられたということである。単に、障碍者が健常者になったということではなかったのである。救われたのである。そのことが分かるのは、この後の彼の行動である。

① 二人と一緒に神を讃美しつつ、礼拝のために神殿に入っていった。いつもは、手前で施しを乞うていた人であった。神を讃美することとは全く関係のない生活をしていた。

② 11節には、「付きまとっている」とある。単なる癒しであるならば、立ってあるくことができるようになったのであるから、ひとこと、礼を言って家に帰るであろう。しかし、彼は二人から離れなかったのである。二人といたら迫害が十分予想されるのにもかかわらず、行動を共にするのである。一切の打算を超えた世界を知ったのである。

(略)

教会は、この世が求めているもの以上のものを与える使命がある。これを忘れてはならない。

 

初物の椿を

母が作った手鞠と

一緒に。