風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「キリストに結ばれた私たち」(ローマの信徒へ手紙16章1節〜16節)

 

今日は、他教派の引退教師による礼拝説教でした。

  「キリストに結ばれた私たち」

 

 2022年2月13日(日) 復活節前第9主日 

聖書箇所:ローマの信徒へ手紙 16章1節〜16節

 

 私たちは、イエス・キリストによって救われました。主に結ばれた群れの一員であります。年を重ねるごとに心打たれることがあります。それは礼拝で「使徒信条」を朗読する時のことです。ことに後半の部分にくるといつも感動を覚えます。聖霊の項目です。「わたしは聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」というところです。聖霊なる神さまは、私にイエスさまを救い主と信じさせてくださいました。そして教会に加えてくださいました。罪が赦され、私のこの体が復活し、永遠の命に生きるものとしてくださったのです。これ以上の喜び、希望はありません。これらを確かなものとするのが、教会生活です。私たちは日曜日ごとに集められ、礼拝を捧げます。罪を悔い、神の言葉を聞き、平安と喜びが与えられます。そのうえ教会員同志の交わりが与えられます。○○教会は、小さな群れですが、日本中、世界中のキリストによって救われ、キリストに結ばれた大きな群れにつながっているのです。これは神さまのみ業です。しかし、今日、 コロナ感染拡大で世界中の人々が不安の中に置かれています。世界中の教会が、 礼拝を守ることに苦慮しています。○○教会は、このような時でも礼拝を捧げ、 ○○先生の説教が代読されてきました。熱心に礼拝を捧げる教会の皆様のお姿を拝見して、私はキリスト教会の初めのころの、ローマ教会のことが頭に浮かぴました。ローマ教会は、当時、外からの迫害にあっていました。パウロに来てほしいと願いながら、それもかないませんでした。ですから信徒が中心になって教会を形成していたと思われます。そういう時、パウロがローマ教会に宛てて書いた手紙が届けられ、礼拝で読まれたと想像されます。今朝はその手紙の最後の部分、挨拶の個所を読みたいと思います。

 16章の小見出しは、「個人的な挨拶」です。この手紙の1章の最初のページの小見出しも「挨拶」です。手紙には挨拶がつきものです。手紙だけでなく、日常生活でも、挨拶は大切です。私はもともと人の前で話すのは苦手な者ですが、最近は思い切って、「皆さん、おはようございます。」と挨拶をしてから、説教を始めるように務めています。

 ところで、1 6章には、解明できていないことがあります。パウロはこの手紙を、コリントにいて、ローマの教会の人々に宛てて書いています。パウロはこれまで、ローマに行ったことがありません。切に行きたいと願っていましたが、どうしても行くことができない状況のなかで、この手紙を書いたのです。

 問題はまだ行ったことがないのに、どうして20数名もの教会員の名をあげて、「誰々さんによろしく」と挨拶を送ることができたのか、ということです。相手の人のことをよく知っています。教会員の交流が盛んに行われていたのだろうとか、他の教会の人の名が混じってしまったのだろうとか、いろいろ考えられていますが、多くの人を納得させる答えはまだありません。

 

 ひとつの教会で、これだけの人の名前が挙げられているのは他には例がないと思いますので分かる範囲で見てみましょう。

 最初は、フェベという人です。この人はローマ教会員ではなく、ケンクレアイ教会の執事さんです。新共同訳や聖書協会共同訳では、「奉仕者」と訳されていますが、口語訳では、「執事」と訳されていました。コリントの東側の港町にある教会の婦人です。パウロがコリントでこの手紙を書き、フェベ執事がローマ教会に届けたと推測されています。さらに、みんなが集まって居るとき、この婦人がパウロの手紙を読み、パウロの近況などを知らせたであろうことは、容易に想像できることです。

 婦人といえば、教会には昔からご婦人が多くおられました。ローマ教会にも3節,プリスカ、6節のマリア、7節のユニアス、12節のトリファイナとトリフォサ、およびペルシス、13節のルフォスの母等です。

 そのあとにローマ教会の何人かの人々への挨拶があります。まず3節のプリスカとアキラという夫婦です。先ほどふれましたように、プリスカが夫人で、アキラが夫です。この夫婦とパウロは、深い交わりをもっており、他の箇所にも何度も出てきます。パウロが初めてコリントに来た時、このふたりはローマから逃げてコリントヘ来たところでした。ローマ皇帝ユダヤ人をローマから追い出す条例を出したからです。(49年)。アキラがパウロと同じ天幕づくリをしていたことから、パウロの働きにも協力しました。そして後にパウロがエフェソで伝道した時は、同行してその伝道を助けました。そして今はローマにいるのです。長い交わりの間に、この夫婦がどんなにパウロを助けたことでしょう。4節には「命がけで私の命を守ってくれた」といっています。パウロだけでなく、異邦人のすべての教会が、ふたりに感謝している、ともいっています。

 5節「エパイネト」、この人は「アジア州でキリストにささげられた初穂」と 紹介されています。アジア州は、今の小アジアです。パウロはまずそこで伝道を開始しました。苦労して、歩き回って伝道したのです。ついに「イエスはキリスト」と告白した最初の人が与えられました。それがこの人です。教会にとって、受洗者が与えられることほど嬉しい事はありません。パウロはこの人を忘れることはなかったと思います。今はローマ教会で信仰生活をしています。

 7節「アンドロニコとユニアス」はパウロの同族と言いますから、ユダヤ人です。そしてパウロより先に信仰に入った人々です。そうしますと、ほとんどキリスト教会の最初の信者です。そういう人がいるだけで、教会はどんなにか心強かったと思います。

 1 1節の「ヘロディオン」は、ヘロデ家の人々という意味です。イエスさまがお生まれになった時、自分の王位を狙う者が誕生したと考えて、ヘロデ大王がベッレヘム付近に住む2歳以下の男の子を皆殺しにしました。そのヘロデの血につながる者がローマにいて、キリスト者になったというのです。ヘロデの暴力に対して、キリストの勝利が何気なく語られています。あのヘロデ家の血族から、キリストを信じる人々が与えられたのです。

 8節以下の人々の名は、奴隷の名が多いようです。当時の人が聞いたら、皆奴隷とわかったのです。8節のアンプリアト、9節のウルバノとスタキス、12節のペルシス、14節のアシンクリトにはじまる5人の人々の名は、奴隷につけられた名前です。当時は多くの奴隷がいました。その人たちが教会に来ていたのです。教会では同じ教会員として受け入れていました。教会が彼らを受け入れ、ひとつの交わりを形成していたことは、驚くべきことです。恐らく教会以外では見られない光景だったと思います。

 どんな人か分からない人も多いのですが、 13節のルフォスについてお話ししたいと思います。マルコ15 : 21にもルフォスの名が出てきます。この人がローマ教会の人と同一人物か、違うのかで見解が分かれます。私は同一人物としてお話します。ただ話は、ルフォスの父シモンについての話です。手紙にはシモンの名前はありませんが、当時これを読んだ人々は、皆知っていたと思われます。ルフォスの父の名は、キレネ人シモンといいます。キレネは、口語訳ではクレネと訳され、北アフリカの町の名前です。イエスさまは、十字架につけられる時、ご自分がつけられる十字架をご自分でかつがされました。それをかついで群衆が見つめている道をゴルゴタの丘まで歩かれたのです。そこへたまたまシモンが通りかかりました。どういうわけかローマの兵士が、その十字架をシモンに担がせたのです。まさに災難です。まさかこんな目に合うとは、思ってもみないことでした。もちろん、兵士に逆らうことはできません。やむをえず十字架を担ぎました。しかし、考えてみれば、誰も経験したことのないことをさせられたのです。聖書には書いてありませんが、イエスさまから十字架を受取る時、イエスさまとの対面があったのではないでしょうか。目が合ってわずかな会話がなされたのではないでしょうか。勝手な想像です。シモンは初め、兵士の突然の命令に、恐怖と怒りをもってイエスさまを見ていました。しかしイエスさまはうしろを振り返りながら歩かれ、その時シモンに注がれた優しいまなざしに、シモンの心が次第に変えられていったのではないかと思われます。ゴルゴタの丘でイエスさまは十字架にかけられました。イエスさまは苦しみと痛みの中で、「父よ、彼らをお許し下さい」と祈られました。十字架の近くにいたシモンは、このことばを聞いたかも知れません。今、イエスさまが十字架上で発せられた赦しを願う祈りと、十字架を背負わされて歩いた時に、振り返って注いでくださった恨みのない愛のまなざしを忘れることはできなかったのです。シモンはこのことを何度も何度も、息子のルフォスや妻に伝え、そして家族そろってキリスト者になったと思います。

 

 少し長くローマ教会の人々のことを語ってきました。この他にも教会員はいたことでしょう。ここから何が分かるでしょうか。まず、仲が悪かったユダヤ人と異邦人が、ローマ教会では一つになっていたことが分かります。更に奴隷と自由人が一つになっていることも驚くべきことです。つまり、ユダヤ人と異邦人の区別がなく、奴隷と自由人の区別もなく、敵対していた人とも一緒になって、ひとつの交わりが形成されており、当時では考えられないことが実現していたということです。男と女がおり、夫婦がおり、信仰生活の長い人がおり、短い人もいる。老人と青年、子供もいたでしょう。これがローマ教会の様子ではなかったでしょうか。そういう人たちのところへ、この手紙が届けられ、読まれました。ローマ人への手紙は難しいと言われますが、当時の人々は、これが読まれるのを聞いて、理解したのです。中には理解できない人もいたかもしれません。それでも皆が喜んで集まり、聞いていたと思われます。

 こんなに多種多様な人々が何によって一つにされているのでしょうか。2節、「主に結ばれて」、3節、「キリスト・イエスに結ばれて」一つにされているのです。キリストは、私の罪を救うために、私の身代わりになってご自分の命を捧げてくださいました。このことを信じることによって私たちはキリストに結ばれて、一つにされているのです。パウロは、12 : 5で、「私たちもキリストに結ばれて一つの体をつくっており、各自は互いに部分なのです。」といっています。キリストに救われてキリストのものとされた私たちは、キリストの体である教会を形成するのです。教会の頭は、キリストであり、わたしたちは、その部分です。ローマ教会の人々も、この○○教会の皆様も、キリスト・イエスに結ばれて一つにされた群れです。神が必要とお考えになられて集めてくださった一人ひとりです。ですから、この群には、不必要な人は、一人もいません。 また、一人も失われてはならないのです。

 

 昨年はコロナ禍の不安や○○先生のご病気の心配が続く一年でした。皆さまの信仰と奉仕、そして長老や執事のお働きによって、礼拝や祈祷会等が守られました。昨年の12月には、一人の姉妹が入会されて、大きな喜ぴと励ましが与えられました。どんなに困難な時でも、神様は守り導いてくださることを私たちにお示しくださいました。

 先日、教会総会が開かれ、新年度の歩みが始められました。○○先生が入院されている間は、礼拝で先生の説教が代読されるようです。ローマ教会の人々のように、代読されるみ言葉を、感謝をもってお聞きしたいと思います。

 そして私たちに与えられているキリストに結ばれて一つにされた教会の交わり、つまり公同の教会、聖徒の交わりは、まさに宝物です。ローマ教会のように、違いや対立を乗り越え、この宝物を守り、引き継いでいかなければなりません。お互いに挨拶をかわし、安否を問い、祈りあいましょう。礼拝を重んじ、 教会の交わりを大切にして○○先生のご回復を祈りつつ、神様のお導きを信じて歩みたいと思います。

 

感謝でした!

 

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この日の司式での長老の祈りも胸に沁みた。