「ドストエフスキー『罪と罰』24」で、私は、「愛は、踏み越える」、と書いた。
しかしここでは、愛は「踏み留まる」のだ、と書かねばならない。
しかし、それにしても、こうした性格をもち、まがりなりにも教育を受けているソーニャが、けっしてこのままの状態にとどまっていられないだろうことも、彼には明らかだった。やはり彼は、ひとつの疑問をふっきれない ーー なぜ彼女はこんなにも長い間、こうした境遇にとどまりながら、水に飛びこむだけの勇気はなかったとしても、どうして発狂しないでいられたのか?(岩波文庫『罪と罰 中』p277)
ここは、ラスコーリニコフがソーニャについて考察する場面である。
myrtus77.hatenablog.comソーニャが継母やその連れ子のために娼婦となった今も、精神に異常を来すこともなく、生きている状況を分析しようとしている場面だ。
愛は忍耐強い。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(コリントの信徒への手紙一13:4,7 聖書協会共同訳)
私はここで、本当の自由とは、愛を選び取ることによってのみ得られるのだ、と言いたいと思う。それがどんなに苦しい境遇に留まることになるとしても。
キリストは、釘付けにされた十字架上で、限りなく自由であった。