風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

自分の頭で考えたところに留まっていては駄目だ!

寝る前に頭に浮かんだ短歌擬きなどをメモしておくことがあるのだけど、片付けをしていたら、紙の切れっ端にこんなことをメモしたものが出てきた。


自分の頭で考える→自分の頭で考えたところに留まっていては駄目だ
          ↓
      神の御心に耳を傾ける


我ながら良いことメモってるなぁと半ば呆れながら、ブログに載せることにした。

「神の御心に耳を傾ける」というのは、聖書の御言葉に聞いて考えるということだ。私たちキリスト教徒は、自分の頭で考えたところに留まっていてはいけないのだ。神の御心に、御言葉に聞かなくてはいけない。

新しく長老になった人には、小会で意見を言う時には、その意見が聖書のどの御言葉に根拠を持っているのかを言わせるようにしたら良い訓練になるだろうと思う。私が牧師だったらそうするだろう。

現実の問題を具体的に決める場合には聖書を見ても答は書いていないと言う人がいるが、そんなことはない。
たとえば、ノアに箱舟を作るようにお命じになった時も、神は箱舟の長さ、高さまでもお決めになって指示を与えておられる。
また、出エジプトの際にも、何を食べるべきか何は食べてはいけないかをことごとくお命じになっている。これら一つ一つのことに民の命がかかっているからだ。神は民を救い出そうとしておられるのである。

私たちは、聖書に記されている事柄から神が示しておられる神の考えを聴き取って、現実の問題も考えていかなくてはならない。
礼拝や祈り会に出て御言葉を聴き続けていると、直接的な事柄ではないのに、このことについてはこうすれば良いと、主から答を受け取ることが出来るようになる。少なくとも私の場合はそうだ。そうやって様々なことを決断して行動してきた。

 彼はわたしに言った、「人の子よ、主なる神はこう言われる、…。(エゼキエル書43:18)
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こうして、彼はわたしを連れて、聖所の東に向いている外の門に帰ると、門は閉じてあった。彼はわたしに言った、「この門は閉じたままにしておけ、開いてはならない。ここからだれもはいってはならない。イスラエルの神、主が、ここからはいったのだから、これは閉じたままにしておけ。…。(エゼキエル書44:1~2)
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あなたがたは、くじを引き、地を分けて、それを所有するときには、地の一部を聖なる地所として主にささげよ。その長さは二万五千キュビト、幅は二万キュビトで、その区域はすべて聖なる地である。そのうち聖所に属するものは縦横五百キュビトずつであって、それは四角である。また五十キュビトの空地をその周囲につくれ。(エゼキエル書45:1~2)