わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく 神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア書6:6)
第七年の五月のことであった。その月の十日に、…長老たち数人が、主の御心を問うために来て、わたしの前に座った。 そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、…長老たちに語り、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。お前たちはわたしの意志を問うために来たのか。わたしは生きている。お前たちが尋ねても、わたしは答えない、と主なる神は言われる。(エゼキエル書20:1〜3)
彼らの心は、自分たちの偶像にひかれていたのである。それでも、わたしの目は彼らを憐れんで、彼らを滅ぼさなかった。(20:16〜17)
わたしが与えると誓ったその地に彼らを導き入れたとき、彼らは高い丘や茂った木を見ると、どこででも、いけにえをささげ、わたしを怒らせる供え物をささげた。彼らはまた、そこで宥めの香りをたき、ぶどう酒の献げ物を注ぎかけた。(20:28)
また、自分の子供を献げ物として火の中を通らせ、すべての偶像によって今日に至るまで自らを汚している。それなのに、…、わたしはお前たちの求めに応じられようか。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは決してお前たちの求めには応じない。お前たちは、『我々は諸国民のように、また、世界各地の種族のように、木や石の偶像に仕えよう』と言っているが、お前たちが心に思うそのようなことは決して実現しない。(20:31〜32)
サムエルは言った。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり 耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。(サムエル記上15:22)