讃美歌21ー452
1 神は私を救い出された。信じるこの身に恐れなどない。
尽きることのない命の水を価なく誰にも与えられる。
この讃美歌を初めて聞いたとき、「信じるこの身に恐れなどない」という歌詞に、凄まじい傲慢さを感じたのだった。しかし、その信仰は、「神が私を救い出されたのだ」ということが前提になっていたのだ、と気づいた。
「安息日の主」
2023年2月5日(日) 復活節前第9主日
聖書箇所:マルコによる福音書 2章23節~28節
(略)
実はファリサイ派の人々のような律法をきちんと守って正しい人であろうとする考えが生じたのには理由があります。かつてユダヤの人々は,神を信頼し,神に従って生きるという神の民の務めを大切にしない時代がありました。丁度,紀元前700年前後の預言者イザヤが預言していた時代です。神が悔い改めを求めて遣わされた預言者の言葉に耳を傾けなかった人々は,ついにはバビロニアによって滅ぼされ,責任ある指導者たちはバビロニアの首都バビロンに連れていかれてしまいました。これをバビロン捕囚と言います。このバビロン捕囚はおよそ50年続きましたが,捕囚の身となった人々は反省をして,きちんと信仰生活を全うしようと考えました。神殿はありませんから,祭儀に関する戒めを守ることはできません。人々は割礼と安息日を守ることを自分たちの信仰のしるしとしました。そして,捕囚が終わってユダヤに戻ってからは、なお一層安息日を守ることを重んじるようになりました。こういう流れの中で,ファリサイ派のような律法を厳格に守り,神の御前で正しい人であろうとする人たちも現れてきたのです。彼らの熱心は,自らの不信仰に対する反省から生まれてきたものであり,神の御前で正しい人であろうとする良い思いによって支えられてきました。
しかし,どこまでもわたしたちはこの世にあっては罪人なのです。キリストによって罪贖われており,赦されており,罪に支配されておりません。けれども,抱えている罪がまるっきり消えてしまった訳ではないのです。信仰から生まれ,良い思いによって支えられてきたものであっても,神の思いそのままということはないのです。わたしたちは絶えず神の言葉によって照らされ,新たに導かれていかねばならないのです。ファリサイ派の人々は,律法に込められた神の恵みを見失っていました。
(略)うそがいい訳ではなく,律法をないがしろにしていいのでもありません。しかし,律法が守られているかどうか監視したり,自分を誇ったり,自ら満足するような仕方で守られるものではありません。神に従い,神の許で共に生きる恵みとして律法は与えられたのです。
そしてイエスはさらにこう言われました。27節「安息日は,人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから,人の子は安息日の主でもある。」安息日は,神がわたしたちに恵みとして与えてくださったものです。人が安息日のためにあるのではありません。
実に安息日はわたしたちに神の創造の御業と救いの御業とを覚えさせてくれる時であります。(略)
奴隷として苦しんでいた民を主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出された,つまり神が救いの御業をなし、神がわたしたちを救ってくださった,そのことを思い起こす日として安息日が与えられているのです。
安息日ごとに神は変わらずにわたしたちの救いの神であることを確認させてくださるのです。
そしてその救いの恵みは,あなたも,息子も,娘も,男女の奴隷も,牛,ろばなどすべての家畜も,あなたの町の門の中に寄留する人々,つまり神の民と共に生きるすべての人々に与えられ,差し出されているのです。
この神が今もわたしたちのために創造の御業をなしてくださり,今でも,そしてこれからも救いの神であってくださることの確かなしるしとして安息日が与えられたのです。まさしく,安息日は恵みとして人のために定められたのであり,決して人が安息日のためにあるのではないのです。
全文(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2023/02/05/202549)
「奴隷として苦しんでいた民を主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出された」ー この部分を聞いた時、讃美歌21ー425番が頭の中で鳴り響いた。そして頭の中で「神はわ〜たしを救い出された」と歌いながら説教を聞いた。