風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

 「神を知る」(マルコによる福音書6:1~6a)

 「神を知る」(マルコによる福音書6:1~6a)

 会堂長ヤイロの娘をいやされたイエスは、弟子たちを連れて故郷であるナザレに帰られました。

 以前、イエスの家族たちは「あの男は気が変になっている」とか「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」といったうわさを聞いて、イエスを取り押さえ、連れ帰ろうとしたことがありました。

 今回イエスは、弟子たちを連れて自ら故郷ナザレへと帰ってきたのです。 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められました。会堂は、会堂長と呼ばれる人によって管理されていました。会堂長というのは、礼拝の責任者で、司会をし、ふさわしい人に祈りと聖書朗読と勧めを依頼しました。イエスは、会堂長から礼拝で御言葉を語るよう依頼されて、教えられたのです。

 そこにはイエスのことを小さい頃から知っている人たちがいました。彼らはイエスの話を聞いて驚きました。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」

 人々は信じられませんでした。自分たちがよく知っているイエスが神の言葉の深みを解き明かすのを。そして人々がうわさし伝えるイエスがなした大いなる奇跡を。イエスは自分たちと変わらない平凡な村人だったはずなのです。「この人は、大工ではないか。」特別な人間ではなく、自分たちと同じ生活をし、働いていた。特別の教育や訓練を受けたわけでもない普通の人、そんな思いがこの言葉からにじみ出ています。

 わたしたちが大工という言葉を聞くと、家を建てる人と考えますが、当時のユダヤでは木ではなく、石を基本として家を建てていますから、大工というのは木工職人を主に指す言葉です。腰掛け・テーブル・鋤・くびきといった木製の家具や農具を作る人でした。この日、会堂でイエスの話を聞いた人の中には、イエスに注文したことのある人もいたことでしょう。「こいつは大工じゃないか。オレが仕事を頼んだあの大工じゃないか。」そんな思いが人々の中にはありました。

 またイエスの家族のことも知ってました。「マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」親も兄弟もみんな知っています。何も変わらないのです。それどころか、少し見下していたところさえ感じられるのです。「マリアの息子」と人々は言います。ユダヤの慣習から言えば、「ヨセフの息子」と呼ばれるはずなのです。これは既に父親であるヨセフが亡くなっていたためだと言われるのですが、父親が亡くなっていても父親の名前でもって子どもは確認されるのです。つまり、ヨセフがひそかに縁を切ろうと考えた出来事、聖霊によってマリアが子を宿したということが、人々のうわさとして口に上ることがあり、イエスに対して父親が誰かも分からない素性のしれない奴という見方をする者もいたということです。

 

 このようにして人々はイエスにつまずきました。他の人々よりもイエスを知っており、イエスと共に過ごした時間が長いのに、イエスが救い主であることを信じられず、イエスにつまずいてしまいました。

 特別な人であればよかったのでしょうか。自分たちの手の届かないような身分の人であればよかったのでしょうか。どんな生活をしているか分からない遠くの人ならばよかったのでしょうか。自分たちと一緒に生きてきた普通の人だったのがいけなかったのでしょうか。一緒に働き、仕事も頼んだことのある平凡な人だからダメだったのでしょうか。

 

 しかし聖書は語ります。「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」( ヘブライ2:17-18)

 わたしたちの罪を贖うために神の御子はすべての点でわたしたちと同じようになってくださったのです。罪を除いてすべての点で同じようになってくださいました。救い主として立つおよそ30歳まで(ルカ3:23)、普通に家族と共に暮らし、家族を支え、皆と同じように働いて生活されたのです。それほど豊かではない地方の小さな村で、みんなが抱えている喜び、楽しみ、悲しみ、苦しみを同じように感じながら歩まれたのです。救い主はわたしたちと同じところに来られ、同じところに立たれたのです。わたしたちの罪を、その苦しみを知っておられるのです。

 

 旧約の預言者イザヤは来るべき救い主を指してこう言っています。「見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」( イザヤ53:2)

 わたしたちは救い主がかっこいいこと、素敵であること、自分たちとは違っていること、を期待するのかもしれません。しかし、神の救いの御業はわたしたちの思いを越え、わたしたちの期待とは違った形でなされます。わたしたちを救おうとする神の愛はいついかなる時にもわたしたちを救う確かな御業としてなされるのです。

 

 ナザレの人々は自分たちがこれまで見てきたことに囚われて、イエスを理解し受け入れることができませんでした。彼らは今自分たちが聞いたイエスの言葉、今イエスがなしている業と向かい合わねばならなかったのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」この思い、この問いに対して真剣に答えようとしなければなりませんでした。しかし、既に知っているという思い、本人も家族も何者であるか知っているという思いが新しく知ることを妨げてしまいました。この世の知識でもって神の救いの御業を拒んでしまいました。

 イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と、当時のことわざを引用して言われました。そして、そこではごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことができませんでした。そして、人々の不信仰に驚かれたのです。

 

 12年間出血に苦しんだ女性はイエスの力を信じてやって来て、その服に触っていやされました。彼女を探し求めるイエスの前に進み出たとき、彼女はイエスから「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」( 5:34)と言われました。

 死に瀕した娘を助けるため自分の立場を捨ててイエスの前にひれ伏した会堂長は、娘が死んでしまったと知らせを受けたとき、イエスから「恐れることはない。ただ信じなさい」(5:36)と言われました。そしてイエスが死んでしまった少女の手を取り「少女よ、起きなさい。」と言われると、少女は死から目覚め、起き上がりました。

 

 イエスは信じることを求められ、その信仰を祝福されました。それは、真に神を信じ、神によって生きることが救いを与えられた者の生き方だからです。

 

 神によって命を与えられたわたしたちは、罪を抱え、神に背を向け離れようとしているときも神のように信じられるものを求めています。自分の願いをかなえ、幸せをもたらしてくれる偶像であったり、この世における様々な力であっても信じられるものを求めているのです。

 人は信じられるものがなくては生きていくことができません。親も兄弟も、友人もこの世も、そして自分自身さえ信じることができない人は生きていくことができません。信じるということは、生きていくことに不可欠の事柄なのです。

 しかし、わたしたちの命を造り救われる神を信じる真の信仰、独り子を遣わすほどに愛される神の愛による信仰でなければ、その信仰は自分や周りの人々を傷つけ、失望をもたらしてしまいます。

 

 わたしたちには本当の信仰、真の信仰が必要なのです。

 わたしたちは真の神と出会うことが必要なのです。

 だから、神は独り子イエス キリストを世に遣わされ、イエス キリストを通して出会うようにされたのです。「神は、かって預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られ」(ヘブライ1:1-2)たのです。

 

 神はわたしたちに信仰を求めておられます。命の源であり、どこまでもわたしたちを愛する神を信じる信仰を求めておられます。イエスの御業はわたしたちに信仰を求めます。イエスの御業は父なる神を指し示し、神の愛を証しする救いの現れなのです。だから信仰のないところでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことができなかったのです。

 

 イエスが会堂で教えられたとき、多くの人々はそれを聞いて驚きました。けれど、人々がナザレでのイエスの生活や家族を知っていることに妨げられて、今直接イエスの教えを聞いても、何人かの病める人がいやされた業を見ても信じない、それでも信じないその不信仰に驚かれました。

 使徒パウロはこのことについてこう言っています。「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(Ⅱコリント5:16)パウロは、キリストはもちろん、キリストが愛されたすべての人についても神の思い・神の愛によらずに知ろうとはしないと言っているのです。

 

 わたしたちの信仰の先輩は「人生の主な目的は何ですか。」という問いに「神を知ることです。」と答えていますジュネーブ教会教理問答 問1)。

 わたしたちの命に根拠を与え、尽きぬ愛を注がれる神に出会い、神を知ることこそが、生きることにおける根本問題であると言っているのです。

 その時わたしたちは知るのです。すべての命は神が愛され求めておられるから存在するということを…。

 

 わたしたちは神に愛され求められて命を与えられました。そして神は今もわたしたちを愛し求めておられます。わたしたちの救いのために、わたしたちと同じ姿をとり、同じところに来てくださった救い主を、わたしたちは自分の目で見、自分の耳で聞き、そして自分で考えなくてはなりません。この人は一体誰なのかを。

 

 

神が愛され求めておられるから咲いている。