風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「救いの御業に仕える神の民」(ゼファニヤ書1:1~6)

「救いの御業に仕える神の民 

 2024年2月11(日) 復活節前第7主日

聖書箇所:ゼファニヤ書  1章1節~6節

 

1. (神の民を整えようとしたヒズキヤの子孫)

 これはおよそ今から2600年ほど前の時代の言葉です。この頃、南ユダ王国は宗教・文化において北の大国アッシリアの影響を受けた時代でした。1節にゼファニアの系図がありますが、その系図は最後ヒズキヤになります。ヨシヤ王の曾祖父もヒズキヤで、おそらくは共にヒズキヤの子孫と思われます。かつて神の民を整えようとしたヒズキヤの子孫であるヨシヤとゼファニアが、再び神の言葉によって民を整えようとしたのだということを、この1節の系図は示しているのだと思います。二人は、真の創り主であり真の救い主である唯一の神と共に生きるということを回復しようとしたのです。

 アッシリアの影響が大きかったこの時代、大国との交易が盛んになり、経済活動は発展し、豊かさは増していきました。そして豊かさが増していくときに、その大国で信じられている宗教や文化に倣おうとする動きが出てきました。アッシリアの宗教や文化を受け入れることが進んでいきました。それが4〜5節に出てくるバアルという神や、天の万象を拝むということや、マルカムにも誓いを立てるということでした。これらが次々とイスラエルの民の間に広がり、受け入れられていったわけです。

 

2.(神の御業をなす者として人は神の形に創造された)

 1節に「ゼファニアに臨んだ主の言葉」とあるように、民を改めるのは神の御旨でした。ゼファニアはその神の御旨を民に伝えなくてはなりません。それは厳しい裁きの言葉でした。3節では強烈な言葉が語られます。ここで語られる光景というのは創造の業が巻き戻されていくような光景です。人も獣も取り去られ、空の鳥も海の魚も取り去られる、神が創造をお始めになるその前へ前へと戻っていく光景が描き出されます。当然この言葉で人々が思い浮かべることは、神が天地をお造りになられたということです。そしてこの神の創造の業は命の創造であり、生きる秩序の創造です。神が言葉を発せられる前は命無き混沌でした。神はそこに命が育まれる世界をお造りになっていかれました。それが失われていくということが告げられています。創造の前の混沌へと巻き戻されていく。つまり神は、「今の生き方が、命を無にしてしまうもの、神が祝福をもって良かったといって積み重ねてこられた、命の創造の御業が失われていく生き方だと気づかなければならない」と言っておられるのです。

 創世記1:27~28にこう書かれています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」神の御業をなす者として人は神の形に創造されたのです。神と共に生き、神の御心を知って御業に仕え、全ての創られた者が神の祝福に預かるようにと、務めは与えられたのです。そのために神は、わたしの言葉を聞き、わたしの御心をなすようにと神の民に求めておられるのです。ところが民は、その務めを放棄して、自分にとって良いと思われるものを受け入れていってしまいました。

 

3.(偶像礼拝と闘う預言者たち)

 預言者たちは偶像礼拝と闘いました。バアル(4節)とは、主人とか夫というような意味の言葉です。これは土地や家畜の生産力を支配する神で、特に農耕の民の間に広く崇拝されていました。イスラエルもカナンの地に定着して農耕が生活の中に入ってきたことによって、その信仰が入って来ました。特に北イスラエル王国の第7代の王アハブがティルスの王の娘であるイゼベルを妻に迎えてバアル礼拝を推進するようになってから広く浸透していきました。天の万象を拝む(5節)という行為も同様にアッシリア人やカナンの地に住む人々によって礼拝されていたものです。農耕にとって天の運行、季節の移り変わりは大切なものです。そうして天の万象が拝まれました。マルカムという名前も出て来ます。これはアンモン人の神としてマルカムと言われています。これもまたバアルの俗称だと言われています。周囲の諸民族との関わりの中でこういうものが知られ入ってきました。そして自分たちが大事にしなければいけないものが薄れていってしまいました。

 

4.(神の御業に召された神の民)

 神の民は神の御業に召されています。わたしたちが信仰をもって生きるということは、それ自体神の救いの御業に仕えることです。わたしの命を造り、罪あってなお愛してくださる、わたしを死と滅びから救い出し、共に生きてくださるのはこの神だと信じて生きる、それは神の救いの御業に仕えていることなのです。それほど立派な信仰は持ってないわたしの毎日なんて、平凡な毎日の繰り返しで大したことは何もしていない、そう思えるかも知れません。けれどそうではありません。神はわたしたちをお用いになります。わたしと共に生きる務めを担ってほしいと神は願っておられます。ですから、わたしのきょうこの日の歩みをすべて主の手に委ね、主と共に生きるとき、神の救いの御業がそこで成されているのです。それは、その務めを放棄してしまったらその者たちは絶たれると言われるくらい神にとって大切なことなのです。この世から見れば、どの神を信じて生きていてもそんなに毎日の生活が変わるなんてことがないように見えるかもしれません。しかし、神がこの世界を、お造りになって良かったと喜ばれた世界を、そして独り子を遣わすほどに愛しておられる世界を救うためには、わたしたちが真の神を信じて生きるということはとても大切な事柄なのです。

 預言者が語ったとき聴く者はわずかでした。およそ50年後、南ユダ王国新バビロニア帝国によって滅ぼされます。多くの民を捕虜としてバビロニアに連れていくというバビロン捕囚が起こりました。その滅びを経験して民は気づいていくのです。預言者の語った言葉は本当であったと。

 神がわたしたちを愛し抜いてくださることは、わたしたちが神を侮っていいということではありません。わたしたちは神の大いなる救いの中にあるからこそ、希望と平安の内に感謝をして生きることができるのです。その幸いのために、神はわたしたちに対して真実でありつづけてくださいます。神を自分の願いを聞いてくれる召使いのように思い違いをしてはなりません。神は便利で都合の良い存在ではないのです。

 神は命を創り、そしてその命を救うために罪を裁き滅ぼす方です。その神がおられる、救いの御業をなしておられる、この神の許にこそ命と未来がある、これを証しするためにわたしたちは召されているのです。

 神は、わたしを信じて生きて欲しい、わたしと共に生きて欲しい、あなたがそうすることはわたしの救いの御業にとって大切なんだ、と語りかけておられるのです。

 

5.(神に信頼し依り頼みつつ歩みゆく)

 様々な事件や災害が起こり、いろいろな問題が立ち現れてきます。人類はこれだけ文明の力を手に入れ、知恵は広がり深まっているのに、人間の根本的な問題は何一つ解決してはいません。わたしたちは、ただ神の御業によってのみこの罪から救い出され、神の子として喜び生きるものとされるのです。わたしたち一人一人の歩みも、この神の御業の中で用いられているのだと深く知り、神に信頼し依り頼みつつ歩みゆくことが求められているのではないでしょうか。

 

この説教、我が夫の説教ながら、ほんとうに良い説教だと思う。こんな厳しい裁きの箇所で、神の愛が語られているのだから。

 

以下は長老の祈り。お祈りも、良いお祈りをしてくださった。

主イエスキリストの父なる神様、あなたの御名をほめたたえます。

立派な信仰も持たず、平凡な毎日の繰り返しで大したことは何もしていない、そう思えるわたしたちです。けれど、そのようなわたしたちを神さまはお用いになります。

ですから、わたしたちの歩みをすべて主の手に委ね、主と共に生きるようにさせてください。

主イエスキリストの御名を通して祈ります。

 

 

桜の妖精のこけし山茶花