風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

説教「キリストのものとなった教会」(使徒言行録20:25~28)より

「キリストのものとなった教会」(使徒言行録20:25~28)より抜粋

1 福音は人間の生死に関わる

 パウロは、25節に「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」と言っている。彼は、自分の死がそう遠くない先にあると覚悟していることを示している。それだから、遠いエフェソからミレトス港にわざわざ来てもらったわけである。言うならば遺言である。

 彼は、自分の伝道者としての働きを総括して「御国を宣べ伝えたのです」と言っている。言い換えれば、ただただ福音だけを語って来たということである。彼は、当時の教養人であったから、哲学を語ることができたし、文学にも精通していた。そういう彼を喜ぶ人もいたであろう。実際、ギリシャアテネで伝道したとき、彼の周りに集まってきた人々の中に哲学者が何人かいた。彼らは、パウロから新しい哲学について話を聞けると思って集まってきたのである。しかし、彼は福音だけを語った。すると、哲学者を初め人々は離れていった。聖書は、そのときのことを次の様に記している。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについてはいずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒言行録17:32)と。それでもパウロは福音だけを語ることに固執した。それはなぜか。それを知る鍵は、26節の言葉にある。「だれの血についても、わたしには責任がありません」には、旧約聖書の背景がある。エゼキエル書33:1~6。パウロのような伝道者の使命は、この箇所で言う「見張り」役である。人間の生死に関わる重大なことを語る役目がある。キリストの福音を語るとはそのような務めである。哲学も文学も、たとえそれを知らなくても、あるいは受け入れなくても自分の生死に関係ない。だから、パウロは福音以外のことは知識はあるのに語らなかった。しかも、彼は「ひるむことなく」と言っている。耳障りの良くないことや反発を招くようなこともあますところなく語ったと言う。

 福音派、救いについて語るけれども、それだけでない。同時に、受け入れない者、キリストを信じない者の永遠の滅びについても語る。これについては、人々は聞くことを喜ばない。馬鹿げていると言われかねない。福音を語る以上滅びについても語らざるを得ない。そのようにして福音の伝道者としての責任を果たして来たとパウロは語る。


2キリストのものとなった教会

 そして続ける。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(28節)と。この文の初めに、原文では「それゆえに」という接続詞がある。それには、神の国の福音すなわちキリストの福音と教会とが密接な結びつきがあるとの前提が示されている。つまり、教会だけに福音が生きて働き、福音が示すキリストの救いがあるということである。パウロは、他の手紙で「教会はキリストの体であって、すべてにおいてすべてをみたしている方の満ちておられる場です」(エフェソの信徒への手紙1:23)と言っている。つまり、教会だけがキリストの救いが救いとして生きているところだと言っている。第3世紀の教会教父キプリアヌスは「教会の外に救いはない」と言い、「教会を母として持たない者は神を父としてもつことはできない」と言った。それは、なぜか。この28節にある通り「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」だからである。この言葉が言わんといているのは、キリストが十字架上で流された血は、他でもない、教会のためであったということである。はっきりさせるために、誤解を恐れずにいえば、キリストの血は、世界のためというよりは教会のために流されたということである。御子キリストが流された尊い血は世界というよりは、教会を罪と滅びから買い取るために支払われた代価である。それは、一滴も無駄にされることはないということである。もし、ある人のためにキリストの血が流されたとすれば、その人は教会の肢体(えだ)とされるということである。

 そうすると、ある人は言うであろう。「『神はそのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された』と聖書にあるではないか」と。その通りである。ただし、この世を愛する神の愛は抽象的、観念的なものでない。神の愛は、キリストのみ体である教会をこの罪の世に建て、教会を通して人々を招き、導き、救うというように歴史の中に展開して行く愛なのである。

 

これは、原稿を書き起こしたものなのだが、実際のお説教では原稿にないヨハネによる福音書の言葉が語られていた。

 

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。(ヨハネによる福音書17:6~9)

 

これは、十字架を前にしたイエスの父なる神への祈りの一節だが、ここでイエス彼らのためにお願いします」と祈っている。

「彼ら」とは、12節に「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです」と記されているように、ここでは直接的に弟子たちのことを指していると思うが、キリスト教の神は、時を超えて、この《私》と直接的な関係を結ばれる神であるということを表している。

 

キリストは、他でもない《この私》のために父なる神への執り成しの願いを為していてくださるのだ。

 

今は平地に建っているが、昔は小高い山の上に教会は建っていた。

そこに教会が建っていたから、私は、神に会いたいと思って、そこに、足を踏み入れた。中学3年のことだ。

 

引っ越しの片付けをしていたら、便箋に挟んだままの葉書が出て来た。もう亡くなられた長老からの最後の頃の手紙だった。

こういう方達が教会を愛し、教会を守って来てくださったから、私は神の元へと来ることが出来た。そんなことを思って、お説教をお聴きしながら涙腺が崩壊しそうになった。

 

献金の時の、執事の祈りも心に沁みた。

 

今日と同じ先生のお説教に以下のお説教がある。

myrtus77.hatenablog.com

にもかかわらず、傷跡だけはそのまま残された。なぜ、傷跡だけは残されなければならなかったのか。イエス・キリストこそ、罪を繰り返すわたしたちの永遠の祭司だからである。決して消えることのない傷跡こそ執り成しの力なのである。

 

夫はよくキリストの三職(預言者、王、祭司)という話をしていた。

長老制の教会で言うと、牧師は預言者、長老は王、執事が祭司だ、と。

王や預言者というと何か華々しく目立っているように思えるが、執事というのは実際の務めもまるで小間使いのように使われているという印象なのだ。

しかし、キリストの務めの中で最も大きいのはこの執り成しではないか?

十字架につくことではなかったか?と思う。

 

こういう人達によって教会は守られ、支えられてきたと思わされる。