風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「飼い葉桶のキリスト」(ルカ2章8節〜20節)

  「飼い葉桶のキリスト」

 
2021年12月26日(日) 降誕節後第1主日礼拝 【クリスマス礼拝】 

聖書箇所:ルカ2章8節〜20節

日本キリスト教会教師   鈴木攻平先生

 
 本日は、クリスマス礼拝をこうしてみなさまと一緒に守ることが許されたことを感謝し、主イエス・キリストの誕生の恵に新たに与り、共に神をほめたたえたいと思う。とともにこの礼拝において、一人の姉妹の入会式を行うことができた。このことは、日本キリスト教会及び御教会を力づけてくださった神のみわざとして喜びたい。

 

 さて、クリスマスは、主イエス・キリストの誕生日である。今から約2000年以上前、イスラエルベツレヘムでお生まれになった出来事を思い起こして神の恵みに感謝する時である。その主イエス・キリストの誕生にまつわるいくつかの目立った事実が聖書に記されている。不思議な星が現れて、東の国から星占いの学者たちをベツレヘムの主イエス・キリストのところまで導いたこと、主の天使が羊飼いたちに現れ、彼らにキリストの誕生を告げたことなどである。きょう、お話したいのはキリストのご降誕を最初に知った羊飼いたちの記事である。

 

Ⅰ 救い主の誕生

 その羊飼いたちにどのようなことが起こったかといえば、野宿していた彼らに天使が現れてこう言った。10-11節である。ここで、天使が言おうとしているのは「救い主が今日お生まれになった」という事実である。つまり、主イエスは、誕生のときすでに救い主であられたということである。これは、大変重要なことである。やがて救い主になる方がお生まれになったのではない。完全な救い主である乳飲み子が与えられたということである。赤ん坊のときはまだ救い主ではなかったが、やがて成長し、修行を積んで救い主になる者として生まれたというのではない。誕生の時、すでに正真正銘の救い主であったということである。

 ところが、昔、教会の中からこのことを否定する人たちがあらわれた。彼らは、主イエスは30歳になってから救い主になり、死の直前に救い主でなくなったと主張したのである。これに対して、正統的教会は、断固反対して、主イエスは誕生の時、すでに救い主であった。救い主として死に、すくい主として復活されたと主張し、異端として退けた。

 わたしたち人間は、生まれながらの罪人である。ダビデは言っている。「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあった」(詩篇51:7)と。

 主イエスは、わたしたちの赤ん坊時代から死に至るまでの罪深い一生をご自分の赤ん坊時代から死に至るまでの清い一生と交換してくださった。これがキリストによるわたしたちの救いである。実際、主イエスはこう言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と。

 

Ⅱ救い主のしるし

 さて、その乳飲み子である主イエスが馬小屋の飼い葉桶に寝かされたこと、それが救い主であることのしるしであると語られている。

 わたしには馬小屋の飼い葉桶に思い出がある。75年前の太平洋戦争が終わって食糧難のなり、わたしたち一家は田畑を借りてお百姓をした。その時、馬を一頭飼っていた。わたしの仕事は、馬のえさを作って与えたり、時々馬小屋の清掃をすることであった。きつい仕事であった。馬小屋の悪臭は鼻にツーンと来る。健康な馬はよくよだれを出す。だから飼い葉桶は汚い。ビタミン豊富な米ぬかを餌に混ぜるから飼い葉桶はよごれる。主イエスは、生まれてすぐにそのようなきたないところに寝かされたのだ。何とみじめな誕生であろう。ところが天使はこう言った。「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子をみるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と。悪臭のするところに寝かされているのが、救い主のしるしだと言う。「しるし」という語は、英語では”sign”である。伝えるべき意味を持っている事実だと言っているのである。

 これは、人々のきらう恐ろしい十字架の死を予め告げるしるしである。十字架刑は、ローマの法律では最も重くむごい刑罰である。実際、主イエスは手足に釘打たれ、わき腹を槍でさされ、まわりの者たちからののしられ、つばきをかけられて死なれた。これを指し示しているのが飼い葉桶である。本当に恥ずかしい誕生であり、死に方と言わねばならない。ところが、キリストの弟子となった使徒パウロはこう言っている。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがあってはならないのです」と。言い換えると、キリストの十字架こそ最高の誇りだと言っている。神さまを無視して平気でいるわたしたち人類に代わって十字架刑を受け、死んでくださったからである。

 

 日曜学校生徒用のこんなたとえ話がある。あるところに、ノコちゃんという小学生の女の子がいた。学校の授業の間に急に降り出した雨はだんだん強くなってやみそうにない。ノコちゃんは、憂鬱になってきた。傘を持って来なかったことだけでない。少し家の遠いノコちゃんのお母さんが、このようなとき、必ず傘やレインコートを持って迎えに来るからであった。だから、傘を持ってこなかったことはそれほど困ることでなかった。お母さんが学校にくること、そしてノコちゃんの友達がお母さんに会うかも知れないことを考えると憂うつになるのであった。と言うのは、お母さんの顔が半分ひどいやけどの痕があったからである。きれいな方の横顔を見るとお母さんはきれいな人と思うのだが、反対側はやけどの痕が目立った。ノコちゃんは一年生のとき、友達とけんかをしたことがあった。その時「お化けの子」と言われたことが今でも心の中に残っていた。お母さんが、迎えに来てくれるとうれしい気持ちより恥ずかしい気持ちの方が強かった。その日も、何人かのお母さんといっしょにノコちゃんお母さん傘と長靴を持って迎えに来ていた。ノコちゃんは、みんながお母さんのやけどの顔をジロジロ見ているような気がしていたたまれなかった。とうとう、その日は傘を受け取らないで駆けるように歩き出した。お母さんはびっくりして追いかけてわけを聞いた。ノコちゃんは、返事もしない。とうとう泣き出した。その夜、ノコちゃんは、お母さんに向かって思い切って言った。「お母さんはどうして顔にやけどの痕があるの?みんなジロジロ見られて恥ずかしい」と泣き出した。お母さんはしばらく黙っていたが、ノコちゃんが泣き止んだと知って、ポツリポツリと話し始めた。

 ノコちゃんが、やっとつかまり立ちができる頃、台所で料理をしていたお母さんの足もとにいたノコちゃんは立ったひょうしにガス管をひっぱった。そのためにガスコンロが動き、コンロの上にあった鍋がひっくり返ってノコちゃんの頭の上に落ちかかった。とっさの判断でノコちゃんを横に押しやったがお母さんの顔に鍋のお湯がザブンとかかってしまったのである。ノコちゃんはなんでもなかったが、ノコちゃんの上にかぶさったお母さんは大やけどしてしまった。顔のやけどの痕はそのときのものだった。ノコちゃんは、それを聞いて胸がいっぱいになった。今まで何も知らないでお母さんを恥ずかしく思っていた自分が逆に恥ずかしくなった。それからは、やけどの痕のあるお母さんを誇りに思うようになった。一緒に歩くことも恥ずかしくなくなった。

 

 王宮の中で飾りたてられた揺りかごに寝かされた幼子キリストでなく、馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされたキリストこそ、わたしたち信仰者の喜びであり、恵みであり、何よりの誇りなのである。福音書は、文学でいうならば、純文学である。推理小説とは違う。純文学は、その最初から小説全体のテーマが語られるが、推理小説は最後にどんでん返しがある。主イエス・キリストの十字架の死はどんでん返しではない。福音書の幼子誕生の出来事は33年後に十字架につきたもう主イエス・キリストを語るからである。主イエスは、わたしたちの一生涯の救い主である。心から感謝し、神をほめたたえたい。

 

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神は自分の言葉の中にいるが、新約聖書および旧約聖書の襁褓にくるまれて、ベツレヘムのまぐさ桶の中で、経験論的な歴史上の人物であるナザレのイエスの背後に身を隠し、決して直接人間の手の中、人間の権力の中には赴かないのである。(フロマートカ=著『神学入門プロテスタントの転換点』(新教出版社)より)