以下に、昨日のお説教の前半部分を書き起こしで掲載させて頂く。
取り上げたのは、主イエスがご自分の十字架の死について語られた箇所である。このところから、十字架の死の意味と恵みについてご一緒に考えたい。
主イエスは、エルサレム入城をなさった後、最後の晩餐までの間に多くのことをなさったことは、マタイ、マルコ、ルカの三福音書が詳しく記している。ところが、ヨハネ福音書は、ほとんどを省略して三福音書が記していない一つの出来事を記録している。ギリシャ人が主イエスに面会を求めてきた事実である。20~22節がそれである。これは、主イエスの名声が外国にまで達していたことを示している。ユダヤ教の祭りのためにエルサレムにやって来た正真正銘のギリシャ人であった。
1 十字架の死への決断
彼らが、面会を求めてきたことを知って、主イエスは十字架の死を改めて決意された。そして、語られたのが23~26節のお言葉である。このお言葉の中で、ご自分を一粒の麦になぞらえておられる。地にまかれて地の中で死ぬか、それともまかれないで一粒の実として生きながらえるか。二つの道があると言っておられる。なぜこのようなことを言われたのか。それは、ギリシャ人が面会を求めてきたことに関係している。
主イエスの名声が、ギリシャにまで達し、面会を求めて来る熱心な人々が国外にいる。敵対者の多いユダヤを離れ、彼らをたよって国外に亡命する道が開かれていることをこのことは教えている。彼らに頼れば十字架の死は避けられる。ほとぼりが冷めた頃に戻ってくれば長く伝道することも可能である。十字架上で死ななくても、多くの教えを残す道もあるのではないか。
しかし、主イエスは、国外に人を頼って逃れるようなことはせず、あえてユダヤにとどまりたもうた。一粒の麦として地に落ちて死ぬこと、すなわち十字架の道を選び取られたのである。それこそが、救い主としての使命であることを改めて悟られたのである。カナンの女に言われた「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイによる福音書15:24)という一見冷たいお言葉の背後には主イエスの十字架の死への決意がある。
しかし、そうは言うものの十字架の死はなまやさしいものではない。そのことを主はよく御存知である。27節のお言葉がそれを示している。「今、わたしは心が騒ぐ」とは、直訳すると「この段になって、なお混乱している」となる。そして祈られた。「『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と。ヨハネによる福音書には、ゲッセマネの園で血の汗を滴らせてささげられた祈りは記されていない。丁度、それに相当する祈りと言ってよい。
主イエスは、ご自分が救い主であることを疑ったことは一度もない。バプテスマのヨハネから洗礼を受けて救い主としての歩みを正式に開始されて以来、変わらなかった。山上の変貌の時には、救い主としての自覚をさらに強くされた。今、このとき、ご自分が十字架の死をとげる以外罪人の救いの道はないことを確認し、あらためて決断されたのである。主イエスは、ご自分の十字架の死を成り行きでこうなってしまった宿命として受け入れられたのではない。ご自分の使命として決断し、受け入れられたのである。
人を生かすことが出来る説教、そして人に死へと赴かせることが出来る説教 ー 良い説教とは、ここに極まるのではないかと思う。
キリストが死への道を切り開いて下さったからだ。
だから、例えば、ホロコーストの収容所でユダヤ人の身代わりに死へと赴く神父が出現したりするのだ。
以下には、別の先生のお説教の最後の部分を掲載する。
「安心して行きなさい」 マルコによる福音書 5:25〜34
(略)
口語訳聖書ではここは「すっかりなおって、達者でいなさい」となっています。原文を直訳すれば、「あなたの病から健康になって」です。主イエスはここで、一つの病気が治ったということではなくて、彼女の人生がすっかり、根本的に癒され、新しくなることを語っておられるのです。それが、信仰によって救われた者に与えられる恵みです。信仰によって救われた者は、安心して生きることができるのです。健康で、元気に、達者に暮らすことができるのです。それはもう病気にならないし 老いることもなくなるということではありません。肉体をもって生きている限り私たちは病気にもなるし、老いていくし、最後は死を迎えます。それらのことが無くなるのではありません。しかし、信仰によって癒され、新しくなった者は、病や老いや死においても、安心して、元気に、達者に歩むことができるのです。主イエス・キリストとの交わりによってです。私たちのために十字架の苦しみと死を引き受け、それを自ら味わって下さった主イエスが、病や老いや死を味わっていく私たちと共にいて下さるのです。そして私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死が復活へとつながっていたことを知っています。父なる神様は死の力を打ち破って、主イエスに復活の命を与えて下さったのです。そしてその復活の命を、主イエスを信じる者たちにも与えて下さると約束して下さっているのです。ですから、主イエスとの交わりの中で味わう死は、復活の命へとつながっているのです。ヤイロの娘の復活はそのことを示しています。主イエスが父ヤイロの願いを聞いて共に歩み出して下さったからには、肉体の死は、眠っているのと同じなのです。目覚める時が与えられるのです。十二歳だったヤイロの娘の復活と、十二年間病気で苦しんできたこの女性の癒しは一つのことを指し示しています。主イエス・キリストとの交わりに生きる者とされる時に、私たちは癒され、新しくされて、安心して、元気に、達者に生き、そして復活の希望の内に死ぬことができる者とされるのです。
安心して行きなさい。
それはGO IN PEACE でありLIVE IN PEACE です。
さあ、ここから 遣わされた現場へ出かけていきましょう。
私は、このお説教の最後に、「DIE IN PEACE」と付け加えたいと思う。
弟のカールはずっと病気でした。そして、もうすぐ自分が死ぬという事を知ってしまいます。その弟に兄はナンギヤラの話を語って聞かせます。「そこは野営のたき火とお話の時代で、そこに行けばすぐに元気で強くなる。そして、きっと君はそこが好きになる」と。
人は、死後の世界について確言することはできません。それができるのは神だけです。けれど、天国について知らされた事を幼子のように受け入れる者は幸いです。
ところが、先にナンギヤラに行ったのは兄の方でした。火事の中から弟を救い出し、「泣くなよ、クッキー(ヨナタンはカールをこう呼んでいた)、ナンギヤラでまた会おう」と、言葉を残して・・。
悲しみにうちひしがれているカールのもとに一羽の雪のように白いハトがやって来ます。それはヨナタンの魂でした。ハトの鳴き声の中にヨナタンの声が聞こえました。「ナンギヤラの美しいサクラ谷に古い騎士屋敷があって、そこには“レヨンイェッタ兄弟”と札がかかっている。君もそこに住むんだよ」と。
十字架にかかる前に、イエス・キリストが弟子達に「あなたがたの住まいを用意しに行く。行って、場所の用意ができたら、わたしのところに迎えよう」と語り聞かせる言葉が聖書に記されています。私達の長子として、私達の住まいをキリストが用意しに行って下さる。弟子達は「そこへ行く道がわたしたちにわかるでしょうか」と心配します。
カールも「そこへ行くのが難しくなければいいのだけれど」と心配しますが、ヨナタンの言葉を信じてその時を待ちます。すると時が来て、レヨンイェッタ兄弟と書かれた屋敷の前に立っていました。
(略)
けれど、この物語はここで終わりではありません。ナンギヤラを自由へと解放したヨナタンはカトラの炎を身に受けて動けなくなってしまいます。ヨナタンはカールに言います。「もしぼくがナンギリマに行けさえしたら!」そして、カールはヨナタンを背負って崖から飛び下ります。
この最後は何を表わしているのでしょうか。自殺でしょうか。私は違うと思います。ナンギヤラでのヨナタンの行動や言葉から、それは考えられない事です。ヨナタンはテンギルの部下が溺れかけているのを助けます。しかも、その馬さえも見捨てようとしなかったのです。そしてヨナタンは、「ぼくには人は殺せない」と何度もつぶやいています。
ここで描かれている事は二つあると思います。
一つはヨナタンを背負うという事。
私はここで、イエスがゴルゴタの丘へ引かれていく途上で、シモンというクレネ人がキリストの十字架を背負ったという記述を思い起こします。そして聖書は、「自分の十字架を負ってキリストに従いなさい」と言っています。
弱く欠けのある私達が恐れながらも十字架を負って従う時、キリストは私達を「小さな勇ましいクッキー」と呼んで下さるのです。
そしてもう一つは、私達がキリストを背負っているかに見えて、実はキリストによって私達が伴われているという事です。
「ヨナタンは、ぼくの首に腕をまいて、しっかりぼくにおぶさっていて、その息がうしろから、ぼくの耳にあたるのを、ぼくは感じました。ほんとに落ちついた息でした。ぼくみたいじゃありません」
私達がキリストに伴われてゆく時、私達はそこに永遠の光を見い出すのです。
「ヨナタン、ぼくには光が見える!光が見えるよ!」ー この物語は、カールのこの歓喜の叫びで終わっています。
(過去に書いた子どもの本の紹介文『はるかな国の兄弟』より)