風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ここで急に、「死に至るまで・・」(ヨハネの黙示録)とドストエフスキーの日記と『はるかな国の兄弟』

最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる。「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。(ヨハネの黙示録2:8,9 新共同訳)

 

食前に読まれたこのローズンゲンの御言葉を聞いて、聖書を開いて続きを確認した。

 

スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。(ヨハネの黙示録2:8~11 口語訳)

 

病気の家族二人を抱え、調子の良い時はいいが、一度崩れはじめると一体何を食べさせれば良いのか食事の度ごとに考えこみ、「主よ、いつまでですか?一体いつまでこんな苦しい思いをして頭を働かせ続けなくてはいけないのですか?」と訴えずにはいられなくなる。

この聖書には、「十日の間、苦難にあうであろう」と出てくる。

いくらなんでも、「十日の間」と、そのまま受け取りはしないが、「十日ですか?」と思わず笑ってしまう。

すると次には、「死に至るまで」と出てきた(まるで‘’おばけ‘’が出てきたみたいだ)。

 

 

そうか!「死に至るまで」だな、と納得する。何故ならここでドストエフスキーの言葉を思い浮かべたからだ。

 

そして、この理想追求の掟を守れないとき、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者(私とマーシャ)のために犠牲に供しえないとき、人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。そこで人間はたえず苦悩を感じていなければならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣合うのである。ここにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう」(ドストエフスキー地下室の手記』(新潮文庫)訳者、江川卓「あとがき」より)

 

 

 

『はるかな国の兄弟』の紹介で私は、「この物語にはナンギヤラという死後の世界や、そのまた死後のナンギリマという国も出て来たりして、とてもキリスト教に関係しているとは思われません。けれど作者は、ここに登場する兄のヨナタン・レヨンイェッタをキリストをイメージして描いていると、私は思います」と書いた。

 

しかしこの黙示録には、「勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない」と書いてあるではないか!

「第二の死」

 

リンドグレーンはやはり聖書を読んでいた、と思った。

 

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