祈りについて考える会合の中で、一人の青年が、クリスチャンでない友人に祈って欲しいと頼まれたという話をしたそうだ。試験に受かって単位が取れなければ資格を習得できないから祈って欲しい、と。その時この青年は、自分が祈ったからといって試験に受かるとは限らない、でも自分には祈ることしかできない、無力だなと思いながら、でも祈ることはできると思って、祈った、と。
神を呼び求めるというのは、自分の無力を知ったところから始まるのではないか、と私は思う。
主よ、呼びかける声を聞いてください。私を憐れみ、答えてください。(詩編27:7)
苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き あらゆる苦難から救ってくださった。(詩編34:7)
苦悩の中から主に呼びかけ わが神に叫びを上げると 主はその宮から私の声を聞き 叫びは御前に至り、その耳に届く。(詩編18:7)
苦難の日に私はあなたを呼び求めます。あなたは必ず答えてくださいます。(詩編86:7)
「呼び求める」は「主の名を呼ぶ」という形で創世記 4:26に出てきます。「主の名を呼ぶ」というのは、礼拝を表し、祈りを表し、神と共に生きることを表す言葉です。聖書が告げる救いは、神と共に生きることです。ですから、パウロは救いに至る道を示したのです。https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2020/03/08/212702