風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

詩編の御言葉


● 『日露ファシスト対談』と『ムーンライダーズLive@中野サンプラザ』、それに映画『灼熱』(ザグレブからアレッポヘ)
残念だけど、犠牲は82人では済まないでしょう。アレッポの市民、約5万人が危険にさらされているという報道もあります。
(中略)
さて、今週は官邸前抗議は宴会で欠席です(泣)。今日は750人の参加者で行われたそうです。
アレッポで今 行われていることを考えると、いつものように呑気に宴会の悪口を書いているような気分にはなれません。それでも備忘として、…。
(中略)
この映画は、『時間はかかるけれども、傷ついた人間にも相手を許すことができる、そして癒されることができる』と語っています。かの地では信じられないくらい酷いことがあったけれど、生きている限り救いはある、と。
                                  
果たしてそうでしょうか。
この映画で描かれたのと同じようなことが、今 シリアで起きているわけです。twitterを見ていると、アレッポで政府軍に圧迫されて最後の時を迎えようとしている市民の声が聞こえてきます。(抜粋引用)

御言葉をブーケのやうに受け取れり 叫び求むる祈りのブーケ

夫の夢は、生きている間に、創世記から黙示録まで聖書全66巻を語るということだったようだが、今年、心不全で入院して先が見えたのか、この夢はかないそうにないと思い始めたようだ。

牧師になってから、礼拝ではマタイ福音書から始め、その合間に詩編を10編ずつと書簡を交互に入れて語ってきた。祈り会は、旧約の創世記から始め、途中、新約の使徒言行録を入れたりしていたのだが、今秋エゼキエル書が終わった後から、詩編の続きを語ることにしたようだ。待降節や受難週などの特別な期間以外は、連続講解説教という形で語っている。

詩編を語るのは難しいと云う。詩編で語られているのは、神の言葉や神の御業でなく、信徒の歌や祈りだからだ。けれど、その信徒の祈りや讃美の歌を、神様は聖書(神の言葉)として私達に与えて下さったのだ、と云う。


詩編の中には「敵を滅ぼしてください」というような祈りが無数に出てくる。

わたしの命を奪おうとする者は恥に落とされ、嘲りを受けますように。(詩編35:4)
主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち 神に逆らう者の歯を砕いてください。(3:8)
主よ、立ち上がってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち わたしの魂を助け出してください。主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち 命ある者の中から彼らの分を絶ってください。(17:13~14)
どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀る者。(139:19)
あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を ことごとく滅ぼしてください。(143:12)

これは、「小国イスラエルが常に周辺の諸民族、諸国家との危機にさらされてきた」からだと云う。平和の中で安穏と生きているのではなく、命を取られる者、死んでいく者を目前にして生きているという状況の中から発せられた叫びのような祈りだということである。

主よ、正しい訴えを聞き わたしの叫びに耳を傾け 祈りに耳を向けてください。(17:1)
神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください。(61:2)
嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ あなたに救いを求めて叫びます。(28:2)
叫び続けて疲れ、喉は涸れ わたしの神を待ち望むあまり 目は衰えてしまいました。(69:4)
苦難の中から主を呼び求め わたしの神に向かって叫ぶと その声は神殿に響き 叫びは御前に至り、御耳に届く。(18:7)
主は流された血に心を留めて それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。(9:13)


また、神に向かって「沈黙しないでください」と祈る祈りも多くある。

国家間の争いの犠牲となることと金の亡者となった者達の犠牲となることとの違いはあっても、神の沈黙の中で死んでいく者達がいることへの納得の出来無さというものは、旧約の昔から今に至るまで私達の心の中に巣くっている、と言える。
しかし主は、主に向かってそのような思いをぶつけるなら、受け止めて下さる。

いつまで、主よ
  わたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。(詩編13:2)

今、この日本に住む私達は、そのような命の危機にさらされてはいないかも知れない。しかし、世界では、なお、命の危機にさらされ、目の前で死んでいく者をどうすることもできないでいる人々が実在している。神に向かって「沈黙しないでください」と叫ぶことすら出来ずに。

私達は、そのような人々に成り代わって、神に向かって祈り叫ぶことが出来るだろうか?教会の祈り会はそのような祈りの場でもある、と思う。そのために、神は、このような詩編を私達に与え、イエス「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18:19~20)と告げていてくださる。