風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「預言」と「予言」は別物

日本に住んでいても、この頃、IT用語や若者用語などで横文字言葉があふれかえり、いちいち調べなければ言っていることがまるで理解できないという場合がある。私はなるべく普段から横文字言葉は使わないようにしている(使えないということもある)のだが、それと同じような感覚で教会用語というのもなるべく使いたくないと思っている。

札幌にいた頃、毎朝礼拝のあるキリスト教系の老人施設に母は入っていたのだが、「『ハレルヤ』って何よ?『ハレルヤ』とか言われても、さっぱり分からん」とか色々と文句を言っていたものだ。私も元々偏屈者の気があるので、偏屈者だった母の言うことは良く理解できた。キリスト教だと言ったって、ここは日本なんだから日本語で言やぁいいでしょ、と思うのだ。そうでないと通じない、と。

その延長で、信仰を持った人が口にするのならいいけれど、信仰も持ってないのに「アレルヤ」とか「ハレルヤ」とか格好つけて言うんじゃないよ、と言いたくなるのだ。
梶浦さんもキリスト教徒でもなさそうなのにキリスト教用語的なものを頻用しているようなので、そこに「なんかだなぁ〜?」とひっかかるものを感じるのだが、娘の気迫に気圧されて言いそびれた。それに、「頻用しているようなので」なんて言ったら、また、「きちんと調べもしないで云々」と叱られそうだ。だけど、(Theの付かない小文字のcの)クリエイターなんていうのは、使えるものはなんでも使って表現するものなのかもしれない。


横文字言葉ではないのだが、キリスト教などで言う「預言」と、ノストラダムスの大予言なんかの「予言」も意味がまるで違う。キリスト教的にはあきらかに「預言」と「予言」は別物なのだが、世の中の人は区別がついていないのではないかと思う。もしかしたら、教会の中の人でも分かっていない人は結構いるのかも知れないと思ったりする。

キリスト教で言う「預言者」の「預言」とは、「預かる」という文字を使っているように、神からの言葉を預かるという意味である。『聖書辞典』から預言者について以下に引用する。

しかし捕囚前の大預言者や捕囚後の時代においては、神から与えられた使信を告知する意味となった。…。そして預言者はその置かれた状況において、神の言葉を告知する者であるが、来るべき時代についても語る者であった。神はその意志と計画を必ず、神の僕である預言者に示した。(『新共同訳聖書 聖書辞典』(新教出版社)より)
「使信」というのも教会用語のようである。横文字言葉で「メッセージ」というのが一番分かりやすそうだ。

「予言」というのは、人間の力で未来の出来事を見通すということだと思われる。だから、つまり「預言」と「予言」の決定的な違いは、よげんする者の背後に「神」がいるか、いないかということになる。

『聖書辞典』「来るべき時代についても語る」と記されているのだが、「よきおとずれ」等は撤回されることはないが、「審き」を告げるのは悔い改めを迫るためのものなので、民が悔い改めれば、預言された「審き」は撤回される場合があるのである。このことが良く分かるように記されているのが、「ヨナ書」である。

預言者ヨナは、神様からの命を受けてニネベの町に「四十日経たらニネベは滅びる」と告げて回った。ところが、ニネベの人々は悔い改めて神を信じたので、神は思いかえして審きをくだされなかったので、ヨナはぶんむくれにむくれたのだった。この辺りのヨナの反応が駄々っ子のようで面白いと思う。
ヨナ書の最終章は面白すぎる。

ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。(赤字表記ミルトスによる)
(中略)
時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。(ヨナ書4:1~11)

私も怒りで、この頃憤死しそうになることがある(笑)。ヨナと私の怒りの原因は全然違うが。