『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の中で、河合氏が、人間はいろいろに病んでいるけれど、そのいちばん根本にあるのが「人間は死ぬ」ということだ、人間だけは自分が死ぬということをすごく早くから知っていて、自分が死ぬということを、自分の人生観の中に取り入れて生きていかなければいけない、それはある意味では病んでいるということだ、そういうことを忘れている人はあたかも病んでいないかのごとくに生きているのだけれど、と語っている言葉に突かれた。「そうなんだよ!ほんとうに、そうなんだ!」と心の底から思う。でも、その河合隼雄氏も、もう、いない。
河合氏が児童書について書かれたものを結構読んできて、感銘を受けたり、なるほどと思わされたものがたくさんあるのだが、『はるかな国の兄弟』だけは全く捉え方が違って、河合氏の捉え方に私は納得できなかったのだが・・。
『はるかな国の兄弟』は、死を見据えて生き始めたリンドグレーンが、自分のために書いた物語であると、今では思う。
以下は、昔書いた子どもの本の紹介
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今回は、『長くつ下のピッピ』の作者リンドグレーンが、死を恐れる子ども達の為に書いたと思われる美しい、とても美しい物語を紹介しましょう。ー『はるかな国の兄弟』。
この物語にはナンギヤラという死後の世界や、そのまた死後のナンギリマという国も出て来たりして、とてもキリスト教に関係しているとは思われません。けれど作者は、ここに登場する兄のヨナタン・レヨンイェッタをキリストをイメージして描いていると、私は思います。
弟のカールはずっと病気でした。そして、もうすぐ自分が死ぬという事を知ってしまいます。その弟に兄はナンギヤラの話を語って聞かせます。「そこは野営のたき火とお話の時代で、そこに行けばすぐに元気で強くなる。そして、きっと君はそこが好きになる」と。
人は、死後の世界について確言することはできません。それができるのは神だけです。けれど、天国について知らされた事を幼子のように受け入れる者は幸いです。
ところが、先にナンギヤラに行ったのは兄の方でした。火事の中から弟を救い出し、「泣くなよ、クッキー(ヨナタンはカールをこう呼んでいた)、ナンギヤラでまた会おう」と、言葉を残して・・。
悲しみにうちひしがれているカールのもとに一羽の雪のように白いハトがやって来ます。それはヨナタンの魂でした。ハトの鳴き声の中にヨナタンの声が聞こえました。「ナンギヤラの美しいサクラ谷に古い騎士屋敷があって、そこには“レヨンイェッタ兄弟”と札がかかっている。君もそこに住むんだよ」と。
十字架にかかる前に、イエス・キリストが弟子達に「あなたがたの住まいを用意しに行く。行って、場所の用意ができたら、わたしのところに迎えよう」と語り聞かせる言葉が聖書に記されています。私達の長子として、私達の住まいをキリストが用意しに行って下さる。弟子達は「そこへ行く道がわたしたちにわかるでしょうか」と心配します。
カールも「そこへ行くのが難しくなければいいのだけれど」と心配しますが、ヨナタンの言葉を信じてその時を待ちます。すると時が来て、レヨンイェッタ兄弟と書かれた屋敷の前に立っていました。
とうとうカールもナンギヤラにやってきました。
けれど、そこは冒険に満ちていました。あってはならない冒険でいっぱいだったのです。そこは、悪と戦いと死に満ちていました。裏切りと不信と虐殺と監禁が渦を巻いていました。まるで、それは陰府(よみ)の国を表わしているようです。ヨナタンはそういう所へ行ったのです。陰府の国を死から解放する為に。
キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。・・。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。(ペテロの第一の手紙3:18~19)
けれど、この物語はここで終わりではありません。ナンギヤラを自由へと解放したヨナタンはカトラの炎を身に受けて動けなくなってしまいます。ヨナタンはカールに言います。「もしぼくがナンギリマに行けさえしたら!」そして、カールはヨナタンを背負って崖から飛び下ります。
この最後は何を表わしているのでしょうか。自殺でしょうか。私は違うと思います。ナンギヤラでのヨナタンの行動や言葉から、それは考えられない事です。ヨナタンはテンギルの部下が溺れかけているのを助けます。しかも、その馬さえも見捨てようとしなかったのです。そしてヨナタンは、「ぼくには人は殺せない」と何度もつぶやいています。
ここで描かれている事は二つあると思います。
一つはヨナタンを背負うという事。
私はここで、イエスがゴルゴタの丘へ引かれていく途上で、シモンというクレネ人がキリストの十字架を背負ったという記述を思い起こします。そして聖書は、「自分の十字架を負ってキリストに従いなさい」と言っています。
弱く欠けのある私達が恐れながらも十字架を負って従う時、キリストは私達を「小さな勇ましいクッキー」と呼んで下さるのです。
そしてもう一つは、私達がキリストを背負っているかに見えて、実はキリストによって私達が伴われているという事です。
「ヨナタンは、ぼくの首に腕をまいて、しっかりぼくにおぶさっていて、その息がうしろから、ぼくの耳にあたるのを、ぼくは感じました。ほんとに落ちついた息でした。ぼくみたいじゃありません」
私達がキリストに伴われてゆく時、私達はそこに永遠の光を見い出すのです。
「ヨナタン、ぼくには光が見える!光が見えるよ!」ーこの物語は、カールのこの歓喜の叫びで終わっています。
主はわたしを光に導き出してくださる。(ミカ書7:9)
● 読書『犬の伊勢参り』と映画『なまいきチョルベンと水夫さん』
人生の目標って、こういうことではないのかと思ってしまう。
こういう映画がもっと増えてほしい。そうしたら世の中は少しはマシになるかもしれない。(抜粋引用)
『なまいきチョルベンと水夫さん』はアストリッド・リンドグレーン=作『わたしたちの島で』を映画化したものだそうです。児童文学の中では、『長くつ下のピッピ』とは異なる系列だけれど、リンドグレーンの『はるかな国の兄弟』が一番好き。(ミルトス)