風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

コストパフォーマンスと「宣教の愚かさ」

夜の間の冬の嵐にクリスマスの案内ポスターちりぢりとなる

アドヴェントに雨の降る冬 幾たびかこのポスターは貼り替えたりき

自転車でスーッと寄り来てポスターの前に佇む人もをりけり

クリスマスの日時をメモり教会へ来るまでぼくなら4,5年かかる 牧師のたまふ

北の方大荒れと云ふ 過ぎし日の吹雪の朝のクリスマス覚ゆ

世の中は「コスト、コスト」と騒ぎ立て「宣教の愚」をクリスチャンも忘る

十字架の愚かさといふ主の御業 そんじょそこらの知恵など無知恵


いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。
 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、
 「わたしは知者の知恵を滅ぼし、
 賢い者の賢さをむなしいものにする」
と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。(コリント人への第一の手紙1:17~25)

昨今、「聖書ばかり読んでいても仕方がない」などと言うキリスト教徒もいるようである。私達キリスト教徒が聖書の御言葉から聞かずして何を考えられるというのだろうか?こんなことだから、信仰を持っていると言いながら、人間の浅知恵しか語れなくなるのだ。信仰が弱体化してきている、と思う。
こういった人々は無力の淵に追い込まれなければ本物の信仰は持ち得ない。キリストを信じるということは、十字架の無力の後に復活の救いを、主が、与えて下さったということを信じることに他ならないからだ。私達は自分の十字架を負ってキリストの後に従うのである。
キリストは十字架にかかるために、無力な赤ん坊となってこの世に来られた!

すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。(歴代志上29:14)