風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

自分の罪を認識しなければ、神の愛を知ることは出来ない!

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(22:20~)ほんとうに、神の愛はイエスキリストの十字架の死を通して現れたということを信じているのか?そこに神さまの愛があるのか、

それとも、漠然と、「神は愛であって、私たちを愛している」という、人間が思い描くそういう愛であるならば、何故3・11震災があるのかとか、何故こんなに戦争が起こるのか?、何故イスラエルパレスチナガザ地区で子ども達を虐殺するようなことをしているのを許しておられるのか?、こういう風に、神さまの愛というのが、聖書において十字架の死を通して現れたというそこのところを踏まえていないならば、私たちが思い描く神さま、私たちに良いことしかしてくれない神さまなら、なんでこんな悪いことが起こるのかという議論がおこるわけです。

(24:18~)それは、「私たちが罪人だ」と、この認識を抜かして神の愛を知ることは出来ないんです!

 

 

 

クリスマスは、この苦しみの中にキリストが来てくださったことを喜ぶ時だ。

うちの夫の病床にもキリストが伴っていてくださる。

 

 

飾り付けに拍車がかかっている。

 

 

 聖書は、救いについて語ります。どのような救いかというと、罪からの救いです。マタイ 1:21では、イエスの誕生を告げる天使が「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」と言っています。ですから、罪が分からないと、自分に救いが必要なのか、自分が救われているのか、よく分からなくなります。それでパウロは、罪をきちんと理解させ、イエス キリストが救い主である、イエス キリストによって救われているということを伝えようとしています。

(略)

 わたしたちを罪から救えるのは、イエス キリストただお一人です。わたしたちを救うためにご自身を献げて十字架を負ってくださったのは、イエス キリストです。わたしたちを死から解放するために死を打ち破ってくださったのは、イエス キリストです。わたしたちはイエス キリストによって救われるのです。

 キリストの救いの恵みに満たされているとき、わたしたちは自分の罪を知ることができます。それは、キリストに救いによる希望があるからです。救いのないところで罪を見るならば、わたしたちには絶望しかありません。キルケゴールは絶望を死に至る病と言いました。望みのないところでわたしたちは生きることができません。しかし、キリストの救いに与るとき、わたしたちは罪ある自分に絶望するのではなく、キリストが罪ある自分を赦し、愛して、受け入れてくださるので、わたしたちも罪を抱えた自分自身を受け入れることができるのです。

 エス キリストは、このわたしの過去も現在も未来も含めたわたしのすべてを救うただ一人の救い主なのです。(ローマの信徒への手紙5:12〜15からの夫の説教より)

 

自分の罪を探ってそこに向き合うのは、ここから先の一人一人の作業になる。

もし、自分に罪がないと言うなら、それは自らを欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。(ヨハネの第一の手紙1:8)