風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「診断とは、治療のための仮説です。最後まで仮説です」(中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』)

 

整形外科の病気:急速破壊型股関節症

一次性股関節症の原因も判明していませんが、一次性股関節症の一つの型という考え方もある一方で、大腿骨頭壊死症や関節リウマチの特殊型、軟骨下脆弱性骨折、結晶沈着、特発性軟骨融解、骨盤傾斜によるストレスなどが考えられています。しかしいまだその原因は明らかとなっていません。(https://www.tokushukai.or.jp/treatment/orthopedics/hakaisei-kokansetsusyo.php

 

ここには「原因は明らかとなっていない」と書かれているのだが、考えられる一つの原因に、「関節リウマチの特殊型」と記されている。

 

リウマチ等のⅢ型アレルギー(免疫複合体症)には好中球が関わっていると思うが、好中球の働きには銅が関連しているという記述も目にしたことがある。

好中球が増えすぎると感染症などに対しては強いが、強すぎると自分の体に炎症を起こさせると言えるのではないだろうか?

 

銅はココアに多い。ナッツ類にも多く含まれている。

ミルクチョコレートでは銅よりもクロムの方が上回るが、アーモンドチョコレートでは銅が一番上に来る。https://calorie.slism.jp/?searchWord=%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%B3&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&x=0&y=0

 

リウマチ等の場合はこういった物は控えた方が良いかも知れない。

 

 

 

myrtus77.hatenablog.com

「診断する」というのは、とても大事な行為だと思う。精神疾患や障害児学級、学校への入所時に診断されることをレッテル貼りのように受け止める人はそこから「差別」ということを問題にしたりもするが、診断して病名や障害名をつけるのは差別を生み出すためではもちろんない。

精神科医中井久夫「診断とは、治療のための仮説です。最後まで仮説です」(『こんなとき私はどうしてきたか』)と言っておられるように、診断とは病名をつけて固定化することではない。

診断とは、必要な助けを提供するためにおこなわれるものである。

私は医師の免許は持っていない。発達診断を判定する資格も持ってはいない。持っているのは小学校教員免許だけである。けれど小学校の教員となって障害を持った子ども達を担当するようになってからは、日々、目の前の子どもにどういった教育内容が必要であるかを判断しながら教育活動を行っていた。つまりこれは、日々診断をし続けていたということと同じことである。

(略)

難聴の子と学習障害の子と軽度発達遅滞の子、この3人の国語と算数を同じ教室で教えたことがある。軽度発達遅滞の子は、計算や漢字を覚えること等は根気よく何度も繰り返すことで習得することができる。けれど、学習障害と判定された子供は筆算や漢字の練習を何度繰り返してもなかなか定着しない。その上、根気よく繰り返すこと自体が難しい。どう指導すれば良いかと考えたときに、学習障害だけでなく注意欠陥多動性障害をも合わせ持っているのではないか等と考える必要が出てくる。

体積の学習の中で、学習障害の子は隠れた辺を容易に推定することが出来たが、軽度発達遅滞の子供にはそれがとても難しいことだった。そういった特性を理解して学習内容と指導方法を考えていかなくてはならない。

その根底にあって、それらを支えているのが「診断」なのである。

(略)

診断の難しいものの一つに、統合失調症アスペルガー症候群があるように思う。アスペルガーなどの自閉症の症状が統合失調症と受け取られやすいところがあるためだと思われる。また、統合失調症の場合も症状が一つの方向だけに限らないようである。私がこのブログの「アトピーとの闘い」の中で度々取り上げてきた『心の病は食事で治す』には、血液中のヒスタミンレベルが高すぎるか、低すぎることによって、心の病や神経の異常な興奮が発生していた」と書かれている。同じ「統合失調症」と診断されても症状が異なっている場合があり、その症状の原因が真逆であったりするということである。ここで、中井久夫氏の言う「診断とは、最後まで仮説です」という言葉が重要性を帯びてくる。

体内のミネラルの不均衡が問題を起こしている場合もある。診るべき視点を複数持たなくてはならない。「心の闇」を追求するという視点だけでは見誤る場合がある。親の育て方が悪かったと言うだけでは解決にならない。

もう一度言おうと思う。親に出来ることの一つは、診断を固定化して受け止めることではなく子どもと一緒に探し求めることではないだろうか、子どもが自分を発見し、理解し、受け止めることが出来るようになるまで共に伴走することではないだろうか、と。

 

myrtus77.hatenablog.com

私はこのごろはあまりしませんが、若いころは患者さんに薬の飲み心地を聞くために自分でも向精神薬を飲んでいました。サンプルが医局に転がっていたのです。一人で当直の晩に飲んだらどうなるかわかりませんから、家で飲みます。飲みすぎたと思うこと、この薬は私にはきついということがあります。レボメプロマジンは、私には頭よりも先に足にきました。立てなくなるのです。こういうときにどうするかというと、まず水を飲む。(中井久夫=著『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院)より抜粋)

患者に飲ませる薬を自分でも飲んでみる等という医者が他にいるだろうか?

中井久夫氏の凄いところはこういうところだと思う。

中井氏の経歴を見ると京都大学ウイルス研究所助手と記されている。

生化学から精神科に移られた方だから、患者に飲ませる薬を自分でも飲んでみるというような発想が生まれてくるのだろうか。

 

 

 

 

 

初物の山茶花を、

平山純子さんぐい呑みに。