風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

診断するということ


春に、前に駄目にしたクレマチスのプリンセス・ダイアナの2年生苗を買って鉢に植えた。花が二輪咲いた後、下から葉が枯れ始めてどうしようもなくなってきたので根本から切り戻して様子を見ていたのだが、どうにも具合が悪い。
クレマチスの本には、買った苗を水洗いして植えるように書いてあったのだが、それをしないまま植えたのだった。それで、根がネマトーダ等にやられている可能性があると考えて鉢から出して洗うことにした。洗ってみたところ、根の様子はネグサレセンチュウにもネコブセンチュウにも侵されていないようだった。
他に考えられることは立枯病があると思った。立枯病であれば、使った土も鉢も廃棄しなければならないように書いてある。
けれどもう一つ私には思い当たることがあった。植えた土だ。このクレマチスを植えるのにも、ハウスメーカーが花壇に山盛りにした土を使ったのだった。水はけがとても悪い上に、私は花を咲かせるために必要だと考えて水を頻繁にやっていた。花が終わった後、梅雨に入り雨が続いて鉢の中からキノコが生え始めていた。それで、土を入れ替えてもう一度植えることにした。

切り戻してから「1〜1か月半後には二番花が咲く」と本に書かれていたが、その後、枝を伸ばし蕾をつけて一つだけ花を咲かせてくれた。下の方で枯れ残っていた葉も新しい緑の葉の勢いに押されて入れ替わってしまったように見える。


「診断する」というのは、とても大事な行為だと思う。精神疾患や障害児学級、学校への入所時に診断されることをレッテル貼りのように受け止める人はそこから「差別」ということを問題にしたりもするが、診断して病名や障害名をつけるのは差別を生み出すためではもちろんない。精神科医中井久夫氏が「診断とは、治療のための仮説です。最後まで仮説です」(『こんなとき私はどうしてきたか』)と言っておられるように、診断とは病名をつけて固定化することではない。

診断とは、必要な助けを提供するためにおこなわれるものである。

私は医師の免許は持っていない。発達診断を判定する資格も持ってはいない。持っているのは小学校教員免許だけである。けれど小学校の教員となって障害を持った子ども達を担当するようになってからは、日々、目の前の子どもにどういった教育内容が必要であるかを判断しながら教育活動を行っていた。つまりこれは、日々診断をし続けていたということと同じことである。自閉症だと診断された子どもがいるとすれば、教育活動の中で、その診断を日々捉え直しながら対応するということだ。

難聴の子と学習障害の子と軽度発達遅滞の子、この3人の国語と算数を同じ教室で教えたことがある。軽度発達遅滞の子は、計算や漢字を覚えること等は根気よく何度も繰り返すことで習得することができる。けれど、学習障害と判定された子供は筆算や漢字の練習を何度繰り返してもなかなか定着しない。その上、根気よく繰り返すこと自体が難しい。どう指導すれば良いかと考えたときに、学習障害だけでなく注意欠陥多動性障害をも合わせ持っているのではないか等と考える必要が出てくる。

体積の学習の中で、学習障害の子は隠れた辺を容易に推定することが出来たが、軽度発達遅滞の子供にはそれがとても難しいことだった。そういった特性を理解して学習内容と指導方法を考えていかなくてはならない。その根底にあって、それらを支えているのが「診断」なのである。


自閉症だったわたしへ』という本がある。この原題は『NOBODY NOWHERE』である。これは精神分裂症(統合失調症)と診断された著者ドナ・ウィリアムズが、「自閉症」へと辿り着く過程を記した書物である。邦訳には本当の自分を見出した著者の驚愕と哀歓が端的に表されている。「これこそ、捜し続けてきた答えなのではないか。あるいは、その答えにたどりつく最初の一歩なのではないか。わたしは自閉症についての本を捜した。読み進むにつれて、わたしの中には、やっと見つけたという気持ちと、怒りのような気持ちとが、ない交ぜになってこみ上げてきた」(ドナ・ウィリアム=著『自閉症だったわたしへ』(新潮文庫))
これは、私の過去記事http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20130926/p1からの抜粋である。

私の娘も軽い学習障害を持っている。以前いた教会に、アメリカに渡って学んだほどに学習障害児の教育を専門としている方がいらしたのだが、その方に話しても「そうとは思えない」と言われるくらい軽いものだが、娘は確かに学習障害という障害を持っている。(このことをブログに書くことはすでに了解済み)。私は小学校入学の頃から、この子は学習障害を持っていると判断して対応してきた。けれど、娘には言わないままやってきて、3,4年前にようやく話したのだった。娘は自分が学習障害だったと知って、これまでの不具合が了解できたようだった。自分への理解が増すというのは生きるための支えとなる。

ある程度成長してきた子供に親がしてやれることの一つは、自分を理解するための情報を共に探し求めてやることではないか、と考える。

それにしても「学習障害」というのは、まったく大雑把な名称をつけたものだと思う。学習障害者によって障害となっている事柄はそれぞれ違う。娘は、コンビニでアルバイトをした時、たばこのパッケージを判別して覚えることが出来なくて困った、という。そういったものが、娘の場合には学習障害の困難として表れてくる。

診断の難しいものの一つに、統合失調症アスペルガー症候群があるように思う。アスペルガーなどの自閉症の症状が統合失調症と受け取られやすいところがあるためだと思われる。また、統合失調症の場合も症状が一つの方向だけに限らないようである。私がこのブログのアトピーとの闘い」の中で度々取り上げてきた『心の病は食事で治す』には、血液中のヒスタミンレベルが高すぎるか、低すぎることによって、心の病や神経の異常な興奮が発生していた」と書かれている。同じ「統合失調症」と診断されても症状が異なっている場合があり、その症状の原因が真逆であったりするということである。ここで、中井久夫氏の言う「診断とは、最後まで仮説です」という言葉が重要性を帯びてくる。

体内のミネラルの不均衡が問題を起こしている場合もある。診るべき視点を複数持たなくてはならない。「心の闇」を追求するという視点だけでは見誤る場合がある。親の育て方が悪かったと言うだけでは解決にならない。

もう一度言おうと思う。親に出来ることの一つは、診断を固定化して受け止めることではなく子どもと一緒に探し求めることではないだろうか、子どもが自分を発見し、理解し、受け止めることが出来るようになるまで共に伴走することではないだろうか、と。
追記
関連過去記事
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加納朋子=作『いちばん初めにあった海』
シュタイナーの四つの気質
アスペルガー症候群とうつ病と統合失調症

アスペルガーという呼び名は変遷しているようなので、今はどういう状態に使われているのか分からない。私の使い方が間違っている可能性もあるが、アスペルガーの人達は、話すことも出来、一見して他者からは問題を抱えているように見えないために解りづらいかも知れないが、自閉症スペクトラム(連続体)に連なっているので、環境の変化には弱いのではないかと思う。