風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

タロット「10 of Air」と「ミルトスはとこしえに絶えることはない」(イザヤ書)

すべてには終はりがあると雷(らい)、告ぐる

をはりがある方がいいと言ひし友よ君は終はつてどこにゐるのか

これは、わざと破調で詠んだ短歌擬きだ。

 

初めて教会に足を踏み入れたのは中三の夏の終わりだった。永遠に終わらないものがどこかにないのだろうか、と思って・・。

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。(イザヤ書55:6)

 

「風の10」

天使が身に纏っている衣や帯、袖口の生地の光沢や質感まで伝わってくるこの美しいカードのテーマは「素晴らしい終わりと希望に満ちた始まりが交わる」で、中には「私は…私の状況が優雅に終わることを許します」と記されている。

「優雅に」

写真が上手く撮れなくてこの美しさをお伝えできないのが残念なのだが・・。

 

あるカードリーダーは「10」について、「9までっていうのは自分の努力の及ぶ範囲なんですよね。その9を越えたところっていうのは神の力が働くところなんですけれども、やれるところまで自分でやって、後は任せることにしたって思えたから入って来る幸せなのかなって思うんですよね」と言っている。

また、この方は、「ワンドの9」について、「このカードは信念を保つっていうことを言っているんですよね。諦めそうになった時、もうこれでいいかなって思いそうになった時、『諦めないで!もう少しだよ』ってメッセージが降りてくる。どれだけ分かろうとしても全然分からないし全く入って来ないなって思った時、もう多分自分には無理なんだろうなって思ったその時にメッセージが入ってくるということ、信じようとしても無理だった、どうしてもまだ疑う気持ちが消えなくて全然信じられないって思っている時、心の底からもう本当に無理だな、こんなものは自分には来ないなって、その思いが本物になった時、そこで何か逆転していくことがあるのかなって思うんですよね」と語っておられる。


タロットカードの占い師だなどと馬鹿に出来ない深さがある。

 

 3節には「とこしえの契約」とあります。フランシスコ会訳では「永遠の契約」と訳されています。神はご自身の民と契約を結ばれます。

 神は何にも縛られない自由なお方です。それなのに、なぜ神は民と契約を結ばれるのでしょうか。契約は約束を守るために結ばれるものです。しかし、わたしたちは罪ゆえに神との契約を守ることができません。ですからこの契約は、神が一方的に結び、神が一方的に履行されるものです。神が一方的に契約を結び、わたしたちを「神の永遠の約束」の中に置いてくださるのです。

 わたしたちは罪ゆえに、完全に神に従うことはできませんし、完全に神を信じることもできません。できないから神に従うことをあきらめてしまう、できないから神を信じることをやめてしまうのではなく、だからこそ、何度でもそこへと立ち返ることができるように、神は永遠の約束の中に置いてくださるのです。神はわたしたちを、ご自身の真実な約束に支えられて生きる者にしてくださっているのです。この神の契約から、神とわたしたち罪人との新しい関係が始まるのです。(イザヤ書55:1~13からの説教より)

 

 

いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生える。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはない」。(イザヤ書55:13)

 

 「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(3節)

 神はわたしたちを命へと招かれます。わたしたちの命を造られた神は、裁きと死に囚われたわたしたちを命へと招かれます。

 

(略)

 

 神の救いを仰ぎ見た者たちは「喜び祝いながら出で立ち平和のうちに導かれて行」(12節)きます。

 「山と丘はあなたたちを迎え 歓声をあげて喜び歌い 野の木々も、手をたたく。茨に代わって糸杉がおどろに代わってミルトスが生える」(12, 13節)。

 被造物も世界も、救いの御業を待ち望んでいるのです。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ 8:19)。

 

 神の救いに与る者は、世界の喜びのために用いられるのです。

 

 「これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない」(13節)。

 「これ」!は、神の救いの御業を指します。

 「それはとこしえに消し去られることがない」のです。裁きがあっても、迫害があっても、消し去られません。神がわたしたちを愛する救いの神である「記念」であり、「しるし」なのです。

 わたしたちは、神のとこしえの契約、永遠の真実によって、今救いの中にあり、今喜びの中に入れられているのです。イザヤ書55:1~13からの説教より)

 

赤字表記した部分などは、ほんとうに、夫が語りそうな言葉だなぁと、今さらながら熟々思う。

私のように、自分の無力に嘆いている者にとっては、これほどの慰めは他にないだろう。

「世界の喜びのために用いられる」だなんて・・。