19日の礼拝では、ヨハネによる福音書1章1節〜18節の降誕節説教を長老によって代読して頂きました。
fruktoj-jahurto.hatenablog.com
この説教は、2016年になされた時、このブログで全文掲載した説教だったのだが、今回、聞き返して、新たに「イエス・キリストは、神の確かな愛を伝える言葉なのです。」という言葉が響いてきた。
言葉には、思いを伝えるという働きがあります。神は、イエスを世に遣わされることによって、わたしたちをどう思っているのか、わたしたちをどうしたいのか、わたしたちに何を望んでいるのかを明らかにされました。一言で言うと、神はわたしたちを愛しておられ、神は、わたしたちと共に生きたいと願っておられます。ヨハネの第一の手紙の4章の9節と10節にはこう書かれています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
イエス・キリストは、神の確かな愛を伝える言葉なのです。
そして言葉は、関係を作ります。わたしたちは関係を持ちたくない相手とは、口をきかなくなります。しかし神は、わたしたちが常に背き続けるにも関わらず、見放すことなく、見捨てることなく、語り続けてくださいます。そして、ついには、ご自身の言葉であるひとり子イエス・キリストを遣わされることによって、わたしたち一人一人と確かな関係を造ろうとしておられるのです。イエス・キリストは、神とわたしたちとの関係を造り出す言葉なのです。
そして、関係を造り出すためにイエス・キリストは肉体をとり、人となって、世に来られました。
今日は、昨年に引き続いて、イヴ礼拝のないクリスマスの夜です。