風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

イエスが言われた、「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。」(ルカによる福音書21:21 口語訳)

米津玄師『カイト』と「逃げよ!」と、それから米津様の新しいMV 『死神』で私は、「逃げよ!」という言葉を聖書の中に探していたのだが、最近聞いた夫の過去の説教によって、イエス自身が「逃げよ!」と言っている箇所があるのを思い出さされた。

 

 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」(ルカによる福音書21:20~24 新共同訳)

 

以下は夫の説教から抜粋。

 ここでイエスは「逃げなさい」と言われます。罪の世の過ぎゆくもの、神の裁きを受けるものと一緒に滅ぶことのないように逃げよ、と言われます。

 それは「書かれていることがことごとく実現する報復の日」だからだと言われます。神の民であるユダヤ人の罪に対する裁きがなされることを表しています。神の民の務めは、神を神として生きることです。しかし、ユダヤ人は神の救いの業を拒絶し、イエス キリストを捨ててしまいました。

 ヨセフスという歴史家が『ユダヤ戦記』という書物を残しています。その『ユダヤ戦記』には、この戦争で110万人が殺され、97,000人が捕虜とされたとあります。

 「彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう」

 以来1900年、ユダヤ人は国を失ったまま流浪の民となりました。1948年にイスラエル国が建国されて「異邦人の時期」は満ちたのでしょうか。そうではない、と思います。なぜなら、悔い改めて、武力に頼らず神に依り頼んで生きるようにはなっていない。イエス キリストを神が遣わした救い主だと信じるに至っていないからです。

 

 イエスは「逃げなさい」と言われました。逃げると言えば、創世記19章のソドムとゴモラが滅ぼされる場面を思い起こします。19章15節~17節と23節~26節へと読んでみましょう。「(略)」

 きょうの箇所とよく似ています。おそらくイエスは、ソドムとゴモラの出来事を踏まえて「逃げなさい」「都に入ってはいけない」「報復の日」だと言われたのだろうと思います。未来を予見して語るというよりも、聖書に記されていることが実現するという意味合いで語られたのだと思います。

 裁かれるものに心引かれてはなりません。ロトの妻のように裁きに巻き込まれてしまいます。エルサレムから離れなくてはなりません。ヨセフスが記すようにエルサレムと共に滅んでしまった人たちは大勢いたのです。そして、ローマが裁かれるときにはローマから離れなくてはなりません。ローマは当時の世界の最先端の文化、文明を誇る大帝国です。ローマが滅びるなどと誰も思いはしません。しかしルカがテオフィロ福音書を献呈してから1900年余り、ローマはもはや歴史の彼方、遺跡において当時を忍ぶばかりです。

 

 それでは、わたしたちは過ぎ去り裁かれるこの世に依り頼まない信仰を持っているでしょうか。わたしたちが暮らす日本もまた今の時代の最先端、豊かな文化と文明のただ中で生きています。けれど、わたしたちはこの世が不動のものではない徴を与えられています。76年前の戦争、26年前の阪神・淡路大震災、10年前の東日本大震災原子力発電所の事故、5年前の熊本地震、そして今の新型コロナウイルス。わたしたちの国はとても豊かでありながら、実に不安定、不確かな存在です。この日本もまた、神の御業の中で過ぎ去り、裁かれる存在です。

 原子力発電所の事故では多くの人がふるさとを失いました。流浪の民となりました。誰も責任を取ってはくれません。ふるさとを返してはくれず、以前の生活を返してはくれません。もちろん失われた命を返してはくれません。3月11日が近づけば思いだし、過ぎれば忘れて別の事へと思いは向かいます。8月15日と同じです。「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみが」あるというイエスの言葉どおりのことが起こるのを、わたしたちは見て知っているのです。

 

 わたしたちは、この目に見える世界で生きています。この世界にある様々なものを必要とし、様々なものに支えられて生きています。けれどわたしたちは、それらのものを創り、それらを備え与えてくださる神へと思いを向けなくてはなりません。わたしたち自身も、わたしたちの周りにあるものも、神が創り、治め導いておられます。そして神だけが永遠に真実なお方です。神が遣わしてくださった神よりの神イエス キリストだけが「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」お方ですとヘブライ人への手紙13章8節にあります。ローマの信徒への手紙1章25節で、「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」と言われていたとおりです。

 

全文は、https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2021/07/25/214237

 

 

 

myrtus77.hatenablog.com