風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

今日の説教を聴いて・・(ルカによる福音書20:9~19)

そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。 (ルカによる福音書20:15,16)

 

 また、これは、祭司長、律法学者、長老たちのイエスご自身に対する思いを表すものであり、まさに、これから起こる十字架の出来事を指し示すものです。

 その後、ぶどう園の主人は、彼らをどうするでしょうか。16節のところ「主人は戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるにちがいない」と述べています。

 このルカによる福音書は、紀元80〜90年頃にまとめられたと考えられています。ですからルカが、この福音書をまとめているときには、既にエルサレムは、ローマ帝国によって破壊され、ユダヤという国は、滅び無くなっていました。紀元70年の出来事です。

 ルカは、「主が言われたとおりだったなぁ」と思いながら、この譬えを書き記したのではないかと思います。

 この譬え話を聞いていた人々は、イエスに向かって「そんなことがあってはなりません」つまり、「農夫たちのような不義な行いがあってはならない」と、抗議をしました。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2021/06/06/173726

 

今日の説教のこの部分、「この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるにちがいない」(ルカ20:16)を聞いていて、これは福音が異邦人へと与えられる、イスラエルから異邦人へと拡がっていくということを告げているのではないかと思った。

 

けれど、長老が「慈しみをもって見つめられる主」という説教題をつけてくださったように、この説教の中心部分は以下にある。

 

 この場面で、ルカは17節の「見つめて」という言葉に「エムブレポー」という単語を使います。ルカは、この単語を22章の61節でも使います。「61主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。」この「ペトロを見つめられた」の「見つめられた」が「エムブレポー」なのです。茂 洋という教団の牧師で、神学者は、この「エムブレポー」は 「慈しんで見る」と訳するのがよいのではないか、と言っています。

 自分の罪も弱さにも気づいていないペトロに対して、イエスは「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」とルカ22章34節で言われます。そして実際にそのことが起こったとき、イエスは慈しみをもってペトロを見るのです。

 ここでも、自分たちがイエスを捨てる、神の愛する子を捨てるのに気づかない人々に対して、そのことが起こった後で、ペトロのように気づけるように、このアレゴリー、寓話を語り、慈しみをもって彼らを見つめられるのです。

 

(略)

 イエスは、今も、慈しみをもって、わたしたちを見つめていてくださいます。だからこそ、わたしたちは、今イエスに出会い、神へ立ち帰ることができるのです。イエスはわたしたちの救いを願っておられます。わたしたちの救いのために今も御言葉を通して語りかけてくださっています。マタイによる福音書4章の4節にあるように「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 のです。(https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2021/06/06/173726