風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコによる福音書15:34)

「夫の本 ー『絶対無と場所 鈴木禅学と西田哲学』(秋月龍珉=著)」で私は、滝沢克己氏は「神の選びと裁きがナザレのイエスというキリストとしてこの世に来られた“人”の上に現されたというバルト神学の真骨頂とも言うべき(二重予定の)部分を理解していないということだ」と書いた。

“人”であるナザレのイエスが捨てられ、裁かれたという事実に慰められるのは、イエスが私たち人間の苦しみを知っていてくださるということにつながるからだ。

 

一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブヨハネを伴われたが、エスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 (マルコによる福音書14:32~36)

 

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコによる福音書15:34)

 

時に、マルコ福音書のこの言葉は詩編22編に記されている言葉で、これは最後は讃美に変わるから、イエスはこの詩編を引用したのであって捨てられたと嘆いているのではない等と語る者がいる。

しかし、この苦しみが茶番なら私たちは救われない。

 

夫が救急車で運ばれ、転院する時まで、誰も会いに来ず、おそらく説明もされず、自分はどうなったのか?どうなるのか?も分からないで、家族からも神からも見捨てられたと思ったのではないだろうかと、後になって、マルコ福音書のこの箇所を読んで思った。自ら命を絶つことさえ出来ない状態であったとは言え、キリストを知っていなければ、耐え得なかったのではないだろうか、と。

 

神の子であるキリストが人となって私たちのところに来てくださり、私たち人間の味わう苦しみの全てを味わい尽くしてくださった、ここに慰めを見出す。

 

「インマヌエル(神われらとともに在す)」の本質は、ここ(見捨てられて、苦しむ者と共にいてくださる)に、ある。

 

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そして「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれ」ました。「『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味」です。裁かれるべきわたしたちに代わってイエスは神に捨てられてくださいました。この言葉は神に捨てられたと感じる人々、神はもうわたしを顧みてくださらないと感じるすべての人々の思いを担って祈られた祈りです。イエスはすべての人に代わって神に裁かれたのです。

 

 

 

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