風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

〈説教〉について(小林秀雄の言葉から)

 

 

どうすれば良かったのかと巻き戻す逝ってしまった6月の海へ

 

 

 僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙つて処した。それについては、今は何の後悔もしてゐない。大事変が終わつた時には、必ず若しかくかくだつたら事変は起こらなかつただらう、事変はこんな風にはならなかつたらうという議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心から起つたか。それさえなければ起こらなかつたか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性といふものをもつと恐ろしいものと考えてゐる。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。(小林秀雄「コメディ・リテレールー小林秀雄を囲んで」)

 

私は小林秀雄の書いたものを読んだことがないので、孫引きの孫引きの孫引きも良いところなのだけど、とある月刊誌を買ってきて、これは読んでおしまいに出来ないと思い、敢えてここに孫引きさせて頂くことにした。

 

「若しかくかくだつたら」ー こういった思考は、時としてキリスト教徒の信仰の中にも現れてくるものである。

 

あぁしておけば良かった、こうしておけば良かったということは、私なども夫が倒れた後にしばしば考えた。

ある人からは、散歩などしてもっと運動をしておかなければいけなかった、と言われた。これは医療関係者ではなく、キリスト教徒から言われた言葉なのだ。

私からすれば、散歩もしようとしていた、しかし薬の作用で散歩から帰って倒れるように横になってしばらく物も食べられなかったんだよ、そんなことも知らないくせに偉そうなことを言うな!ということなのだ。

 

しかしそれより、キリスト教徒における、こういった物言いの最も大きな問題点は、《生きて働く神》を見ようとしていない、ということなのである。

《自分たちの力》で、こうも出来た、あぁも出来た、ということだ。

 

伝道についての集会なんかでも、どうしたらもっと人を集められるか考えないといけない等という意見が出たりする。こういうのは、今話題の金集めカルトとなんら変わらない発想だと言える。

 

しかし、こういった発想は、教会員だけでなく、ともすれば牧師の説教の中でも幅を利かせ始めるのである。

 

しかし、聖書を見れば、神はファラオの心を頑なにされるお方なのである。敵を用いてご自分の民であるイスラエルを討たれるお方なのである。

 

独り子を遣わして十字架にかけるお方なのである。そしてそこまでして私たちを救おうとなさるお方なのである。

 

この神の前で、こうすれば良かった、あぁすれば良かった、こうすべきだ、あぁすべきだ等と無駄口をたたくのは、即座に!止めなくてはいけない。

 

「主よ、お語りください。僕は聞きます」(サムエル記上3章)、だ!

 

 

目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。

それらを数えて、引き出された方

それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。 (イザヤ書40:26)

 

天に座しておられる者よ、

わたしはあなたにむかって目をあげます。(詩篇123:1)

 

 

fruktoj-jahurto.hatenablog.com

 イエスが十字架に掛かられたのが紀元30年頃、マタイによる福音書が編纂されたのが紀元80年頃と考えられています。ここには50年ほどの時間がありますが、その間に十字架の目撃者、イエスの証人たちが口伝で伝えていたものが、次第に福音を伝える資料として書き記され、福音書に編纂されていったと考えられています。
 イエスが十字架で死んだという事実が、旧約の成就であるというのは信仰の理解です。ほとんどの人は十字架で信じることはできませんでした。その十字架が教会のしるしとなりました。神のわたしたちを救うという思いが真実であり、イエスが救いを成し遂げてくださったことを聖霊が教えてくださったのです。イエスの十字架が神の救いの御業であることを聖書は証ししています。だからこそ聖書は神の言葉なのです。

 イエス キリストの十字架こそ、あなたのための救いの御業だと、神は語りかけ、わたしたちを救いへと招いていてくださるのです。