風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマの信徒への手紙3:24)

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマの信徒への手紙3:23~24)


● 説教(ローマ人への手紙 3:21〜24) 「聖書の言葉を聴きながら」
 神はこのイエス キリストの義を、イエス キリストが持つ神との正しい関係を、わたしたちに与えようとしてくださっています。それは旧約の時代から示されていました。(略)パウロが言う「律法と預言者とによって」(21節)という表現は「旧約によって」という意味です。旧約によって指し示されていたものが、ついにイエス キリストによって到来し実現したのです。

 そして、わたしたちは「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」(24節)のです。

(略)

 ここで一つ注意しなければならないのは、わたしたちの信仰に、救いに至る価値があるのではありません。わたしたちの信仰は弱く小さなものです。神を完全に信じ抜くような信仰ではありません。信じることにおいても、イエスがわたしたちに代わって十字架に至るまで神を信じ抜いてくださったのです。行いも信仰も、イエス キリストがわたしたちに代わって、わたしたちのために、全きものを神に献げてくださったのです。
 わたしたちが信じるのは、神がわたしの救いのすべてを成し遂げてくださったということ。わたしが救われているのは、神の恵みによるもの。神が御子を救い主として遣わしてくださり、キリストが救いの業を成し遂げてくださった。そして聖霊がキリストの救いにこのわたしを与らせてくださる。わたしの救いのすべては神によるものである、ということを理解し信じるのです。
  ですから、わたしたちの信仰の度合いによって救われるのではありません。わたしが熱心に疑いなく神を信じたから救われるのではありません。神がこのわたしを愛してくださり救ってくださったから、信じるのです。(抜粋)

このところのローマ人への手紙の説教で、「パウロは、「キリストを信じる信仰の義によって救われる」(3:21~)ということを丁寧に語ってきました。」と、夫は語り出している。しかし、この言い回しは聞く者に誤解を与える言い回しだと思う。「信仰義認」という言葉自体が理解されにくい言葉だと思うが・・。


最近、命名について考えさせられることが多かった。
昔から思っているのは「自閉症」だが、疲労が蓄積された慢性疲労とは別物の「慢性疲労症候群」というのがあるらしい。慢性疲労症候群と診断された人はこの病気について理解をして貰うために活動しているようだが、こんな紛らわしい病名をどうして付けるのか、と思ってしまう。
「乳酸脱水素酵素」もその一つで、私ならピルビン酸乳酸相互変換酵素とでもつけるところだが、「乳酸脱水素酵素」なのである。


ローマ人への手紙を語り始めてから、この「信仰義認」について、夫はパウロ顔負けに丁寧に語っているが、なかなか理解されないようである。
ローマ人への手紙というのは論理的に書かれたものだから、「信仰」というものを頭で理解するためには最適な書だと私自身は思う。今回引用した説教でも「…ということを理解し信じるのです」と語っているように、頭の中を整理して理解するということは「信じる」ための助けとなるだろう。しかし心情を挟んで聞くとどうだろうか?


牧師になった初めの頃、長血を患う女のところの説教をした礼拝後、高齢の婦人から「今日のお説教とても良かった」と言っていただいたのだが、そのすぐ後、夫が玄関先で教会員を見送っていると、別の婦人から「今日の説教はとても聞けませんでした」と言われたということがあった。同じ説教をして一人の人からは喜ばれ、別の人にはガッカリされたのだ。

12年間も長血を患っていた女がうしろからイエスの衣のふさに触る。その行為をイエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってお認めになるのである。
ここのところで夫は、「病気を治して貰いたいという謂わば御利益宗教のような信仰を、イエスは、『あなたの信仰』と言って下さるのです」というような説教をしたのだ。
自分(人間)の中に何らかの善性を認められたいと思っている人は、「御利益宗教のような信仰」と言われるのは許せないと思うだろう。
しかし、ローマ人への手紙は、「義人はいない、ひとりもいない」(3:10)、「すべての人は罪を犯した」(3:23)と語っている書なのである。

自分の不信仰に苦しんでいる者、自分の力ではどうすることも出来ないものに苦しんでいる者にとっては、ローマ人への手紙は大きな慰めの書となるだろう。そして・・


長血を患う女の、そして私たちの小さな小さな信仰を「あなたの信仰」と呼んで下さるキリストに出会うならば、私たちは救われる。

エスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。(マタイによる福音書9:22)