風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「マルコによる福音書2:1〜12からの説教」原稿が見つかった。

夫のパソコンの中にマルコによる福音書2章1~12節の説教原稿が見つかった。最後はメモ風で完全原稿にはなっていないようだが・・。 

 重い皮膚病の人を癒されてから数日後、イエスは再びカファルナウムに戻ってこられました。おそらく前回滞在されたシモンとアンデレの家(1:29)におられたのではないかと思いますが、イエスがおられるということが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになってしまいました。するとイエスは集まった人々に神の御言葉を語り、神の国の福音を教えられました。

 するとそこへ4人の男の人が中風の人を寝床のまま運んで来ました。この人は病気のため麻痺があり、寝たきりで言葉も十分に話せなかったようです。4人の人たちが息子なのか友人なのかは分かりません。いずれにしろイエスが来ているという話を聞いて、中風で苦しむこの人をイエスのもとに連れていかなくてはならない、と考えました。イエスなら癒してくださるに違いないと思ったのでしょう。

 しかし来てみると、既に大勢の人でいっぱいでイエスのもとに連れて行くことはできませんでした。けれども、この4人はあきらめませんでした。そこで彼らは屋上に上がり屋根をはがして中風の人をイエスの前に吊り降ろすことにしました。ユダヤの家は屋根は平らで、木の枝を編んだものの上に粘土が敷かれていました。これは毎年秋になると雨期の前に修理をしなければならない程度のものでした。ですから、家の外には屋上に上がるための階段がついている家が普通でした。4人はこの階段を上がり、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしました。勝手に人の家の屋根をはがすなどとはとんでもないことですが、毎年の修理を必要としているような屋根ですから彼らも自分たちの家で毎年やっていて後できちんと直すからと思ってやったのでしょう。とにかく,彼らは何としても中風の人をイエスの前に連れていかなくてはと考えていたのです。

 

ここまでは聖書のあらすじを辿っている。

 

 中にいた人々は驚いたでしょう。上の方で音がすると思ったら、屋根がはがされて床に寝ている人がつり降ろされてきたのですから。

 しかし、イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。エスは中風の人の信仰を見てではなく、その人をイエスのもとに連れてきた4人の信仰を見て「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。

 このイエスの言葉はわたしたちに疑問を引き起こします。本人の信仰で判断されるのではないのか、と。

 しかし、わたしたちは考えてみなくてはなりません。わたしたち自身がイエスのもとに導かれたときのことを。わたしたちはどうやってイエスを知ったのでしょうか。

 わたしたちが導かれた教会があったのはなぜか。わたしたちの救いを願い、キリストを述べ伝え、教会を建てた人たちが先ずいたのです。

 わたしたちの信仰が最初にあったからキリストを信じるようになったのではありません。何よりもまず最初に神の愛があり、そしてイエス キリストによるほか救いはないと信じて、わたしたちをイエスの前に連れていこうとした人々の信仰があったのです。

 わたしたちは本人にその気がない、信仰がないなら仕方ないと思ってはいないか。

 イエスはわたしたちの信仰を見て、わたしたちの愛する者に「子よ、あなたの罪は赦される」と語りかけてくださるのです。イエスはわたしたちの信仰を、祈りを受け止めてくださいます。わたしたちは自分の小ささとか弱さに心を向けるのではなく、イエス キリストに心を向けて大胆に信じ、イエス キリストに救いがあることを信じ、祈りましょう。

 わたしたちの業は欠け多いかもしれない。けれど,イエスはイエスご自身を信じる信仰を見て「子よ、あなたの罪は赦される」と語りかけてくださるお方なのです。

 

 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

 

 律法学者の考えは正しい。神おひとりのほかに罪を赦すことのできるものはいない。この律法学者たちの思いはイエスが一体誰であるかを指し示すものとなる。

 

 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり,床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。

 

 人には赦しの言葉を言うことの方が易しい。言うだけだし、検証できない。

 しかし、神の言葉は出来事になる。神の言葉は空しくならない。赦しをなすためにイエスは人となられた。わたしたちの罪を負い、裁かれ、命を捨てるために人となられた。

 中風の人も、連れてきた人たちも癒しを求めていた。しかし、本当に解決されなければならない問題は罪。わたしたちにはその重さが分からない。しかし、イエスはそのために命を差し出した。本当に罪の赦しがわたしたちには必要。

 人々は皆驚き、「このようなことは,今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。しかし、本当に驚くべきはイエスの十字架。神の思い、神の愛、その御業の偉大さを知って神を讚えよ!

 

「神おひとりのほかに罪を赦すことのできるものはいない。この律法学者たちの思いはイエスが一体誰であるかを指し示すものとなる」ー こういったところは、マルコ1章1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」に立ち戻っていると言えるように思う。

 

そして、「中風の人も、連れてきた人たちも癒しを求めていた。しかし、本当に解決されなければならない問題は罪。わたしたちにはその重さが分からない。しかし、イエスはそのために命を差し出した」。

 

こういう説教を聞き続けてきたから、私自身が、今のこの(夫が倒れるという)事態に揺るがずにいられるのだと思える。

 

しかし、自分の罪を自覚・認識出来ない人や、人間の力を自負している人は、こういう説教は受け容れられないだろうと思う。

 

 

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