風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「恐れることはない,ただ信じなさい」(マルコによる福音書 5:35~43)

引っ越しのため、落ち着くまでしばらくブログの更新をしませんが、ご心配なく。

また、iCloudの容量が一杯でパソコンに同期させることが出来ず、花の写真も載せることが出来ません。

 

「恐れることはない,ただ信じなさい」(マルコによる福音書 5:35~43)

 

1.(会堂長 ヤイロの懇願)

 イエスは嵐を乗り越えてゲラサ人の地方へと渡られ,一人の汚れた霊に苦しむ人を癒されました。しかし,その癒しは,その地の人々の財産である豚を犠牲にしたため,他の人々に喜ばれませんでした。人々はイエスに「出て行ってもらいたい」と言い出しました。イエスは舟に乗って再び向こう岸に渡られました。すると再び,大勢の群衆がそばに集まって来たので,イエスは湖のほとりに留まっておられました。そこへ会堂長の一人でヤイロという名の人が来て,イエスを見ると足もとにひれ伏して,強くこう願いました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか,おいでになって手を置いてやってください。そうすれば,娘は助かり,生きるでしょう。」会堂長というのは,礼拝の責任者で,司会をし,ふさわしい人に祈りと聖書朗読と勧めをする依頼をし,許可を与える人です。また,会堂長は律法を教え,裁判を行い,その地方の事件の処理を行う大変責任ある務めも持っていました。その会堂長の職にあるヤイロがイエスを探してやって来て,その足もとにひれ伏して,今にも死にそうな娘のために懇願するのです。イエスはその願いを聞き入れ,ヤイロと一緒に出かけていかれました。集まっていた群衆も,イエスが癒しを行われるのを見ようとその後に従い,押し迫ってきました。ヤイロは一刻も早くイエスに来てほしかったでしょう。

 

2.(望みは断ちきられ,絶望がヤイロを覆い尽くす)

 しかしその時,12年間もの間,出血に苦しむ女性がイエスの服に触りました。イエスの服に触れれば癒していただけると考えたからです。その途端,その女性の願い通り,病は癒されました。イエスは癒しが起こったことを知って,服に触れた者を探し始められました。それは単なる癒しではなく,救いを彼女に与えるためでした。そんなイエスの思いを知る由もないヤイロは,気がせいたことでしょう。イエスの服に触れた女性が出てきて,ひれ伏し,すべてをありのままに話しました。律法によれば彼女は汚れた者です。その彼女が触れたイエスも汚れていることになります。普段であれば,ヤイロはそのことを見過ごしには,しなかったでしょう。けれど,今は娘が生きるか死ぬかの瀬戸際でした。この娘は12歳で,ルカによる福音書によれば一人娘でした。とにかく,今すぐイエスに手を置いて癒してもらいたかったのです。しかし,イエスがまだ話しておられるときに,会堂長の家から人々がやって来ました。そして「お嬢さんは亡くなりました。もう,先生を煩わすには及ばないでしょう。」と告げたのです。この言葉を聞いたときのヤイロの落胆はどれほどのものだったでしょうか。彼は会堂長ですから,イエスユダヤ教の指導者たちから快く思われていないことは良く知っていたでしょう。それでも,死に瀕している娘のために自分の立場も捨てて,イエスの足もとにひれ伏して懇願しました。しかし,すべてが無駄になってしまったのです。何もかもが手遅れでした。望みは断ちきられ,絶望がヤイロを覆い尽くそうとします。

 

3.(恐れることはない。ただ信じなさい。)

 しかし,イエスはその話をそばで聞いて「恐れることはない。ただ信じなさい。」とヤイロに言われました。ヤイロだけでなく,そこにいたすべての人が「あぁ,間に合わなかったか」と諦めたとき,その諦めのただ中にイエスの力強い声が響くのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」死を前にしたら,諦めるほかはないのです。それなのにイエス・キリストは,死がすべての希望を飲み尽くそうとするその時に,希望の言葉を語るのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」とイエスは言われます。一体,何を信じるのでしょうか。それは救い主イエス・キリストを信じるのです。救い主のもたらす救いを信じるのです。イエスは,ペトロ,ヤコブ,またヤコブの兄弟ヨハネの他は,誰もついて来ることをお許しにならなりませんでした。この3人だけを連れて行かれるときは,イエス・キリストが救い主であることの証しが現れるときでした。一行は会堂長の家に着きました。人々が大声で泣き騒いで子どもの死を悲しんでいます。しかし,イエスは家の中に入ると,人々に言われました。「なぜ,泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」イエスは言われます。「子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」わたしたちが諦めをもって受け入れなければならない死に対して,イエスは眠りだと言われます。イエスの前では死は終わりではないのです。死によってもイエスの救いを妨げることはできないのです。死んでしまったら手遅れなのではありません。生も死も,すべては神の御手の内にあり,すべては主の救いの恵みの内にあるのです。主の救いが及ばないところはありません。しかし,人々はイエスをあざ笑います。期待するどころかあざ笑うのです。死に捕らえられ支配されている人々には全く理解できません。パウロアテネで伝道したときにも,死者の復活ということを聞くと,ある者はあざ笑い,ある者は「それについては,いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ったのでした使徒17:32)。イエスはあざ笑う人々を相手にせず,皆を外に出し,子どもの両親と三人の弟子だけを連れて,子どものいる所へ入って行かれました。そして,子どもの手を取って「タリタ,クム」と言われました。これはアラム語で「少女よ,わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味です。アラム語はイエスが話しておられた言葉です。この福音書は当時の地中海世界の共通語であったギリシャ語で書かれていますが,イエス自身が語られた印象的な一言としてイエスが語られたままのアラム語で記録されています。ここでイエスは少女の手を取られました。律法の規定によれば,死体に触れた者は汚れるのです民数記19:11)。しかし,イエスは汚れを妨げとすることなく,少女の手を取るのです。ここで「汚れている」という考えについて説明しますが,聖書においてはきれい・汚いではなく,道徳的に正しい・間違っているでもありません。神と共にあることができるか,神のもとで共にあることができるかどうか,というのが聖書における「汚れ」という考えです。ただし,律法で言われていることの中には衛生的な問題も含まれていますし,信仰の熱心が健康に無理をきたさないように配慮されたものも含まれていました。先に申し上げましたが,律法によれば,出血をしている女性は汚れており,その女性の使った物,またその物に触れた人も汚れます(レビ15:25~27)。けれど,イエスにとっては出血している女性に触れられたことも,死んでいる少女の手を取ることも問題になりませんでした。申し上げた通り,汚れは神と共にあることができるか,神のもとで共にあることができるかどうかを示す考えです。しかし,イエスは神との関係を壊し,神と共に生きることを妨げ,死へと導く罪を贖うために来てくださいました。死を打ち破る新しい命をわたしたちに与えるために来られたのです。どのような汚れも罪も,死でさえも,主イエスとわたしたちの間を妨げることはできないのです。イエスが少女の手を取り,「タリタ,クム」「少女よ,起きなさい」と言われると,少女はすぐに起き上がり,歩きだしました。それを見た人々は驚きのあまり我を忘れました。イエスはこのことを誰にも知らせないようにと厳しく命じ,また,食べ物を少女に与えるようにと言われました。少女は病のため食事をすることもできない状態だったのでしょうし,食事をするというのは本当に生きているしるしです。イエスも復活されたとき,驚く弟子たちの前で魚を食べられました(ルカ24:41~43)。誰にも知らせないようにというのは,単なる奇跡を行うすごい人と理解されることや,ロ~マ帝国に支配されていたユダヤの独立のために救い主として担ぎ出されることを避けるためでした。

 

4.わたしたちへの問いかけ

 汚れの壁を打ち壊し,死を打ち破られたのは,イエスが真の救い主であることの証しであり,イエスを信じ,イエスに従う真の信仰が求められているのです。イエス・キリストが共におられるとき,もはや恐れる必要はありません。死ですらも恐れる必要はないのです。どのような時にもイエスを信じて大丈夫です。自分自身も,愛する者をもイエスに委ねて大丈夫なのです。世の何ものもわたしたちをイエス・キリストから引き離すことはできないのです。

ロ~マ8:38~39
 「わたしは確信しています。死も,命も,天使も,支配するものも,現在のものも,未来のものも,力あるものも,高い所にいるものも,低い所にいるものも,他のどんな被造物も,わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から,わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 わたしたちも,既に召された者たちも終わりの日にこの少女のように「さあ,起きなさい」というイエスの声を聴くでしょう。愛と真実に満ちた主の御声はわたしたちを永遠の命へと目覚めさせてくださいます。
 そして,主はきょうも(死の知らせに囲まれた)わたしたちに語りかけてくださいます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」

 

書き殴ったような原稿に、小見出しをつけ、いつも綺麗に説教原稿を整えてくださっている。

この3年、長老の皆さんが、このようにして私たち牧師一家を支えてきてくださいました。