風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「神の業が現れるため」(ヨハネによる福音書9:1〜7)(追記)

昨日は、他教派の引退された先生によって礼拝が守られました。

以下にお説教の原稿を掲載させて頂きます。

「神の業が現れるため」(ヨハネによる福音書9:1〜7)

 ただ今、ヨハネによる福音書9章7節まで読みました。生まれつき目の見えない人が癒やされた話です。この話は9章全体で一つの物語になっています。ただ少し長いので全体に触れることができないことをお許しいただきたいと思います。

 ヨハネによる福音書には、イエスさまが個人的に対話をされる話があります。たとえば、3章のニコデモ、4章のサマリアの女、5章の38年間池のそばに座って水の動くのを待っていた人、8章の姦淫の女、そしてこの目の見えない人の話などです。ニコデモ以外は、皆イエスさまに呼びかけられて対話が始まっています。よく読んでいきますと、イエスさまと話をしている人が、他の誰かではなく、私たちひとりひとりのことではないかと思わせられてきます。生まれつき目の見えない人の話は、目が見える自分とは関係のないことだと思わないでください。イエスさまは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。生まれつきですからこの人は一度も光を見たことがありません。長い間、暗闇の中にいたのです。色や形もわかりません。相手の顔の表情や世の中の様子もわかりません。目が癒されることもなく今まで生きてきました。18節以降に彼の両親が登場しますが、家が貧しかったのか、この人は道端に座って物乞いをしていました。そこをイエスさまと弟子たちが通りかかりました。そして弟子たちが、「ラビ(先生の意味)、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したのですか、本人ですか、それとも両親ですか」とイエスさまに尋ねました。

 

 ところで皆さんは、思いがけない事故に遭ったり、重い病気になったり、何か悲惨な状態におちいったりした時、「罰が当たったと思ったことはありませんか。私は子供の頃、母に「そんなことをするとバチが当たるよ」とよく言われました。エレミヤ書31:29にこういう言葉があります。「先祖がすいぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」先祖のしたことが、子や孫に影響を及ぼすというのです。同じことですが、十戒の第二戒は、「いかなる像もつくってはならない」ですが、つづいて「父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と書かれています。(出エ20:4~5)戒めを守らなかった先祖の罪の報いが、子や孫にまで及ぶというのです。因果応報です。人間の不幸は、罪に対する刑罰であるという考えは、今日の社会にもありますが、古代からイスラエルの社会にもあった考え方でした。イエスさまの弟子たちも、目の見えない人は、本人か両親が罪を犯したのでその罰が当たったと思っていました。ですからイエスさまにあのような質問をしたのです。もしそういうことなら、これは本人ではありません。なぜなら本人は生まれつき目が見えないからです。本人が生まれて何年間か生きて、その間に罪を犯し、目が見えなくなったというなら、本人のせいだということが言えるかも知れません。しかしこの人は、生まれた時から目が見えないのです。では両親の罪のせいでしょうか。エスさまのお答えは明解です。3節で「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。まず弟子たちや当時の人達が持っていた因果応報的な考えを根底からくつがえされました。つまり本人や、両親が、罪を犯した罰がこの人に下り、目が見えなくなったのではない、と言われます。これはとても大事なことです。様々な不幸、災い、病いなどは、犯した罪の報いではないのです。 ではなんでしょうか。「神の業が現れるためである」とイエスさまが言われます。神の業とはなんでしょう。文字通り神がなされる業です。またここで弟子たちが盲人を見る目と、イエスさまが盲人を見られるのとでは、大きな隔たりがあるのに気づきます。弟子たちの目は過去に向けられています。この不幸は一体何が原因で、誰が犯した罪なのかに向けられています。過去のことです。しかしイエスさまは盲人の未来に目を向けられます。どんな不幸な状態にあっても、この人の上に神の業が現れ、罪から解放され救いに与る未来へと向けられるのです。

 

 この人は自分からイエスさまに目が見えるようにしてくださいとお願いはしていません。エスさまの方からこの人に近づかれ、地面に唾をされ、土をこねて目に塗り、シロアムの池で洗うようにいわれました。この人はそのようにしました。すると目が見えるようになった、というのです。この奇跡も神のみ業でありましょう。この人はイエスさまがどういう方であるか、何も知らないまま、またシロアムの池で何が起こるかもわからないまま、イエスさまの言われる通りに従ったのです。このことが信仰の第一歩になったのです。戻ってきたらイエスさまはそこにはおられませんでした。目が開かれて帰ってきた人を見て人々の反応はさまざまでした。「この人はさっきまでここで物乞いをしていた人ではないか」と言ったり、「その人だ」と言う人がいたかと思うと、「違う、その人に似ているだけだ」という人までいました。本人は「自分は物乞いをしていて、見えるようにしていただいた者だ」と言っているのに、人々は好き勝手なことを言い合っていました。不思議に思うことは、これほどの癒しが行われたのに、うれしさや喜びが十分伝わってこないことです。ここに居合わせた人々が、皆喜んだ、と書かれてあってもよい所です。又本人が喜び、踊り出しても良いはずです。しかしここにはそういう描写はありません。目が見えるようにしてくださった方のお名前は分かりましたが、お顔を見たこともなく、お話を聞いたことがありませんでした。

 人々は祝福の言葉をかけるどころか、目が見えるようになった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。取り調べを受けさせるためです。9:13節以下に、ファリサイ派ユダヤ人たちが、この人と両親を取り調べる話が続きます。目が癒されたのは安息日でした。安息日は何の業もしてはならないと律法に定められていました。イエスという男はその律法を破ったというのです。ファリサイ派の人々は、律法を守ろうとする人々であり、またそれを破る人を取り締まる人々でもありました。「あの人をどう思うのか」との問いに、この人は、17節で、「預言者です」と答えています。あれからイエスさまについて人々が話しているのを聞いて、そう答えたのでしょう。初めは、名前しか知らなかったのに、神の言葉を語る「預言者」だと思うようになってきたのです。ファリサイ派の人々は、18節でこの人の両親を呼んで取り調べます。両親は、「これは私たちの息子で、生まれつき目が見えなかった」とだけ証言し、それ以上のことは話しませんでした。「本人は大人ですから、直接聞いてください」と言います。22節を見ますと、イエスをメシアと告白する者は、会堂から追放されることを知っていたからでした。

 

 24節を見ますと、再度ユダヤ人たちに呼び出され、「あのイエスという者は、律法を破ったから罪ある人間だと知っているのだ」と問い詰められます。この人は、自分は生まれつき目が見えなかったが、見えるようにしていただいた。罪ある人にそのようなことはおできにならない。あの方が神のもとから来られた方だからこそ、おできになった」と語り出します。そこでユダヤ人たちは、この人を外に追い出しました。ユダヤ人の社会から追い出すことです。つまり村八分にあったのです。9:13から34節で、目が開かれた人の信仰が深まっていった様子を見ることができます。初めは何も分かりませんでした。しかし目を見えるようにしていただき、ユダヤ人たちやファリサイ派の人々に尋問されていくうちに、信仰が徐々に強められていきました。初めは「預言者だと思います」(17節)と言っていたのに、「神のもとから来られたお方」(33節)とはっきり言うことができるようになったのです。それもユダヤ人たちやファリサイ派の人々を恐れることなく語ったのです。

 

 この人が外に追い出されたことをお聞きになったイエスさまは、彼をそのままにはされませんでした。すぐに会うために来てくださったのです。この人はこの時初めて自分の目でイエスさまを見ることができたのです。その様子が35節から記されていますので読んでみましょう。

(35節)「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、」とあります。「ひざまずく」というのは、礼拝することを意味します。この人はついにイエスさまを主と信じ、告白する信仰に至ったのです。この時イエスさまが、9章3節で「神の業がこの人に現れるためである」と言われたことが起こったのです。道端で物乞いをしていた人が、イエスさまに見出され、目を癒され、徐々に信仰が成長し、ついにはイエスさまを主と信じ、救われました。闇の中にいた人が、神の子とされたのです。これが、神の業がこの人に現れたということです。

 この神の業について記しているヨハネによる福音書6:28と29節を読んでみましょう。

そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。

そして同6:65節には「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言われました。ですから、信仰を告白し、救いに与ることができたのは、神の業が現れていることであり、決して人間の知恵や力や努力の結果ではありません。

 

 はじめにこの目の見えない人は私たちのことではないか、といいました。私たちは生まれた時から神を求め、神に従う者ではありませんでした。熱心に求めて下さったのは、実に神さまの方からでした。神に逆らう私たちを忍耐をもって追い求め、いろいろな人々との出会いを通して、信仰を強め、試練に遭うこともありましたが、教会に導き、エスさまを主と告白し、洗礼をうけ、神の子としていただきました。そして今は礼拝を守っています。聖書は、これを神の業が現れたといっています。

 

 レーナ・マリアさんという、スエーデン人のゴスペルシンガーがおられます。

 私は大阪と福島でコンサートに行きました。みなさんも御存知のように重い障害をもってお生まれになった方です。大変な障害をもちながら、世界各地でコンサートを開き、讃美歌を歌って主を讃美し、イエスさまを証ししておられます。とても感動します。マリアさんの上に神の業が現れたのです。彼女を支えているのはこの信仰です。コンサートでいつも『アメイジング グレイス』を歌われます。「私はかつては迷っていたが、今は神に見出され、かつては盲人だったが、今は見える」という内容です。ヨハネによる福音書9章に登場した人の姿とよく似ています。

 「見える」とは、目が見えるというより、イエスさまを救い主と信じることです。

 

 最後に、39節からイエスさまは、見える者と見えない者について語られています。実は、この箇所は、この物語の中でイエスさまとファリサイ派の人々が初めて直接対話をする場面です。ファリサイ派の人々は、自分たちは見える者だと自負していました。ですからイエスさまの言葉に反発して、イエスさまに詰め寄りました。イエスさまは「見えるとあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る」と言われました。私たちも見える者だと思い込んではいないでしょうか。そのような私たちは、罪と暗闇の中に留まっているのです。しかし、イエスさまは罪人である私たちに近づいてくださいます。そして私たちを見える者にしてくださいます。

 

 父なる神さまは、人間の救いのために、独り子イエスさまをこの世にお遣わしになりました。エスさまはそのために、言葉と行いのすべてを注いでお働きになられました。それどころか十字架にかかってご自分の命までも捨ててくださいました。そのことによって罪人である人間は、イエスさまを「神から遣わされた救い主」と信じて救われました。私たち一人一人にも神の業が現れて救われたのです。救われた者が集められて教会が形成されています。ですからこの○○教会も神の業が現れていると言えます。私たちは感謝と喜びをもって神を礼拝し、主に従って歩みたいと思います。そして神の業によって救われる人が一人でも多く与えられるように祈り、主イエス・キリストの証し人として用いていただけるように、祈りつつ励みたいと思います。 

 

このお説教の原稿をパソコンで入力してくださっているのは先生の娘さんだと伺っています。牧師が病気で寝たきりの中でも、多くの方に支えられて礼拝を守ることが出来ていますことに感謝しております。

 

 

 

この話は9章全体で一つの物語になっています」と語られたこのお説教をお聴きして、私自身が過去に子ども達に話したものを纏めた過去記事を読み返した。

myrtus77.hatenablog.com

日曜学校で聖書を語るために気をつけるいくつかの事柄をまとめておこうと思う。
(略)
「目の見えなかった人が魔法のように見えるようになった」ということにならないように、注意が必要である。最終的には、目が見えるようになったということよりも、イエス様を見えるようにしていただいたのだ、というところを大事に語りたい。そこが、38節のイエスを拝する行為につながる点でもある。
また、「イエス様を見えるようにしていただいた」ということと同時に、「光であるイエスに照らされて見えるようになった」という二つを頭に入れて語る。これは、ヨハネによる福音書の初めにもつながる内容である。「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている」(1:4~5)
最後に、お話の中の登場人物と自分達は全く関係ないということにならないように気を付ける。聖書の言葉はいつも自分達に語られているのだということを大事にして語ること。

 

myrtus77.hatenablog.com

低学年向けのところでも書いたのだが、この部分は、9章の最後まで続いている。

 

ちゃんと9章全体を通して話していたので、「私って偉い!」って、思った(笑)。