今日代読して頂いた説教は何回かに分けて載せたいと思った。
先ずは1回目。
ある安息日にイエスが麦畑を通って歩いて行かれたときのことです。弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めました。すると,それを見たファリサイ派の人々がイエスに向かって24節「御覧なさい。なぜ,彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と問い質しました。弟子たちが麦の穂を摘んだのは明らかに他人の畑でした。しかし,他人の畑の麦の穂を摘んだから非難されたのではありません。申命記23章26節には「隣人の麦畑に入るときは,手で穂を摘んでもよいが,その麦畑で鎌を使ってはならない。」と書かれていて,弟子たちがしたのは許されている行為でした。
聖書に書かれている律法,戒めにはよく読んでみると面白いもの,なるほどと思わされるものが多くあります。
この申命記にある律法も旅人や貧しい人が飢えをしのぐために手で摘んで食べる分には人の麦畑から、もらってもいいと言われているのです。
この律法の前にはこうも書かれています。「隣人のぶどう畑に入るときは,思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが,籠に入れてはならない。」まさか人の畑から頂くのに「思う存分満足するまで」などと書かれているとは思いませんでした。
律法は,神に従って歩み,神の許で共に生きるために与えられた恵みの言葉なのです。本来は神の恵みが律法から溢れてくるのです。
しかし,わたしたちの罪はその恵みから離れていこうとしてしまいます。
この「律法は,神に従って歩み,神の許で共に生きるために与えられた恵みの言葉」であるということは、夫が良く語っていたことである。
夫の律法理解が、「神の恵みが律法から溢れてくる」というような言葉によって表されていると言える。
今日、説教前の讃美歌として長老が選んでくださったのが、讃美歌3番であった。
3番の3節の歌詞、「いとくすし主の律法(おきて)、雪と敷き雨と降り、谷をはしり野に流れ、風とそよぎ花と咲く」。
これは何という歌詞か!と思った。
正に、
律法は,神に従って歩み,神の許で共に生きるために与えられた恵みの言葉なのです。本来は神の恵みが律法から溢れてくるのです。
この説教にぴったりの讃美歌であった。感謝!