風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

感覚と俳句ー(聴覚人間の私)

以前、娘が学校の図書室から借りてきた本だったかに、どの感覚を一番優位に働かせているかを診断するというようなものがあった。いくつかの質問をされた時の目の動きや考える仕草によって診断されるというものだ。視覚、聴覚、触覚(嗅覚は触覚の中に入る)の3タイプに分かれていた。その時の診断では、私は聴覚人間だった。

最近になってやたらその本のことを思い出す、というのは、俳句のようなものを作ろうとして見たままを写生しようとするとどうも上手くいかないということに気づいたからなのだ。目の前にあるものが美しいと思い、その美しさを句にしたいと思って作ろうとすると納得のいくものが出来たためしがない。とすると、子規などが言っている(と言っても、子規が何と言っているのか読んだこともないのだが)写生句を作る能力が私には欠落しているのだろうか、と・・。

視覚というのは、たとえば嗅覚などよりは客観的に物事を描写しやすいのではないだろうか。他の感覚器と比べて、目で見たものというのは、「美しい」とかの主観を伴うことなく、比喩で表すこともなく伝えられる気がする。けれど、匂いというのは、たとえば「花のような」とか、「燻したような」とか、他のものを借りて言うのでなければ匂いそのものを言い表すことはなかなかできないように思う。(匂いを構成する有機化合物の一つ一つの成分を連ねたのでは俳句にはならない)。そうでなければ「良い香り」だとか「臭い」だとかの好き嫌いの感情で表現するしかないのではないだろうか。

アロマセラピストの資格を取る学びの中で、「嗅覚は大脳辺縁系に先ず受け入れられ後に大脳新皮質で認識されるため、大脳新皮質の認識を待たずに直接的に身体調節に関わる」「大脳辺縁系には海馬や扁桃体などがあるため、香りは好き嫌いや快不快などの感情と共に記憶されることが多い」と教えられた。そんなことを考えていると、匂いや香りを句にしたものは身体に訴えやすいのではないかと思った。
逆に写生句は、一読して身体的に受け止めるというのが難しいのではないか、と思ったのだった。文字から読みとった情景を頭の中で思い描けなければ味わえないのではないだろうか。思い描いたとしても心が震えるような感動を覚えるためにはその先が必要であるような気がする。

では、聴覚はどうだろう。聴覚は、客観性とか身体性という点で嗅覚と視覚の間に位置するのではないかと思う。耳を澄ます時には目を瞑ることが多いように思う。その方が聴くことに集中できる。けれど、その時嗅覚は塞がない。音の信号が音波であることを考えると、聴覚は触覚や嗅覚の情報の受け取り方に近いように思う。そして目は瞑るが鼻は塞がないことを思えば、聴覚は嗅覚からの情報によっても支えられていると言えるように思う。私は、「香りがうるさい」と思うことがある。「静かな香りだ」と思うこともある。


ところで歌人の葛原妙子はその短歌の中に「審かるるものの質ありさびしきとき美しきものを凝視する瞳に」『飛行』と詠っているほどであるから、視覚の人だったのだろうと思う。だから見事にちゅうりっぷを写実した歌がある。

球根よりますぐにいでて寂かなるみどりの柄なりし白きちゅうりっぷ『朱靈』土に埋まっている球根は実際には目に見えていないだろうから、「球根より」の部分は目を瞑って見たものを詠っていると言える。次の「寂かなる」は「寂」に「しづ」と読み仮名を打たせているので、ここには主観が入っている。けれど、読む者はこの言葉に心を共振させられるのではないだろうか。この言葉に掴まって次を読み進んでいくときに「みどりの柄」にハッとさせられ、ちゅうりっぷが白であることに打たれるのではないか。つまり写生したものの背後に必ず作者の心があるということだと思う。
春草のいただきに白き花咲きてほろびしゆゑに土の匂へり『朱靈』
この歌は、最後に「土の匂へり」と嗅覚でキャッチした情報が入っている。この最後の言葉までを読んだとき、この歌が生々しく身近に迫って来るように感じられるのは、嗅覚による情報で表現されているせいだと思う。そして、「ほろびしゆゑに」という言葉によって「命」を実感する。ここで、「萎れた」とか「枯れた」というような言葉を選ばないところが作者の力量なのだと思う。「ほろびし」と「土の匂へり」という言葉によって、それまで白い植物だったものがまるで獣のように思えてくる。目の前に、今息絶えたばかりの生温かい獣が横たわっているような気さえしてくる。


葛原妙子には又、次のような短歌もある。
あきらかにものをみむとしまづあきらかに目を閉ざしたり『朱靈』